江戸時代罪を犯した無宿者(人別帳から除籍された者)は、その罰として佐渡金山の水替(溜水の汲揚)人足に使役される者もあった。
江戸でこの水替人足の刑に処せられた囚人は、普通中仙道を通り三国峠から新潟に向かうか、あるいは中仙道の追分から善光寺を通って新潟に送られた。ところが天明五年(一七八五)八月から金山送りの囚人は、日光街道を宇都宮に出ると、宇都宮から奥州街道を白河へそれより会津を抜けて新潟に出る道に改められた。このときの囚人護送は八月九日に江戸を出発し、同月十九日に新潟着、二十一日に佐渡金山着という先触であったので、佐渡までの道中は十二日かかったことになる。
途中越ヶ谷宿が初の宿泊所にあてられた。この時の金山送りの囚人は四十人で、いずれも目籠に入れられたままの宿泊であった。
護送の役人は、代官羽倉権九郎ならびに宮村孫左衛門の手代三名とその下役三名、それに足軽八名で、合計一四名の手勢であった。
宿所は手代衆上下六人が、越ヶ谷町本町の旅籠屋四ツ目屋次左衛門方に、足軽八人が同じく松本屋嘉吉方へ、囚人の目籠四〇挺は、旅籠屋九軒にそれぞれ分宿された。
この囚人に対する番人足は、一籠に付二人づつの不寝番で合わせて八〇人の人足が動員された。
翌朝目籠は粕壁宿に継立てられたが、目籠一挺にかごかき人足がそれぞれ三人掛かり、このほか棒突(先払い)四人、才料(監督)五人、帳役(記録役)一人、馬差(人足の指図人)一人が付添ったのでかなりの異様な大行列であった。
この時の役人の宿代や人足代はすべて定額によって支払われたが、囚人の食事代や宿代、弁当代は無償であるきまりであった。したがって囚人に給与された食事や弁当は、いたって粗末なものであったに違いない。
道中はこの先幸手休み古河泊り、小金井休み宇都宮泊り、喜連川休み大田原泊り、芦野休み白川泊り、牧ノ内休み勢至堂泊り、福良休み若松泊り、片角休み野沢泊り、白抜休み津川泊り、綱木休み新発田泊り、松ヶ崎休み新潟泊り、それから御用幟りを立てた船で夷港へ継送りされることになっていた。
この佐渡金山の水替人足は、一生暗い金山の穴ぐらで働き通しながら死んでいった人が多い。鉱毒に犯されて早死していった人も多い。
これらのことを知ってか知らないでか、当時護送中の水替人足を見送った越ヶ谷宿の人々の心情は、残念ながら記録に残っていないので知るすべもない。