西方村の小作人越訴騒動(その一)

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奉行所越訴

 自給自足経済をくずしていく商品流通の浸透と共に、階層の分化が進行して、江戸時代の後半になると、各村内には土地を失って無高層に転落した小作人が激増してくる。
 こうした人々は耕作を請負った田畑からの収穫に頼って生活を維持しなければならないので、凶作などの年には質入れする土地もなく、生死の岐路に立つことが多かった。
 さて享和二年(一八〇一)という年は、関東一円は水害による凶作であったが、西方村ではその被害が平年作の一割にも達しないという代官所調査役人の判断で、年貢の減免は許されなかった。
 そこで地主方は年貢引きが許されない以上、その作徳(小作料)も一反に付、三升宛の小作引きしかできないと主張した。

 小作人方では、役人の見立てとは異なり、実際は水腐がはなはだしく、被害は大きい。その上一反に付、九斗から一石五、六升宛の小作料なので、作徳を納入するのも精一杯である。
 したがって小作料の容赦引については特別の配慮を願いたいと交渉を続けてきた。だが地主方ではがんとしてその引下げを拒否してこれに応じようとしなかった。
 こうした折のある日、突然小作人一同は大挙して江戸に向かい、奉行所元締壁谷太郎兵衛に小作料引下願の越訴(正式な手続きを経ない訴願)を決行した。

 奉行所では御法度(法令)を破った罪人として、越訴の先導者と見られた五名の者を手鎖に処して留置し、他の者は十名から十五名宛江戸宿(裁判をうける者が宿泊する特別な宿屋)八軒に分宿させて預けられた。
 これから推すと、越訴の参加者は一〇〇名以上の集団であったと見られる。
 この越訴を後で知った西方村役人は、予期しない事態に驚きあわて、夜中急いで江戸に駆けつけた。

 翌朝早々、この事を代官役所に通知した上、奉行所に着届の手続きをとって、訴願書を提出した。ところが、この願書の中に、小作人達のお願筋は惣代を立ててお調べを願うという文面があり、奉行所役人の激怒をかった。
 つまり、この問題は、地主対小作人の間で処理することで、奉行所のかかわりあう筋ではない。にもかかわらず惣代をもって訴願するという事は、村役人一同小作人達と同意の上強訴を決行したものと判断できる、ということであった。

 したがって不届な取り計らい一同手鎖に処すぞとおどかされて、一日中白洲に留置され、夕方ようやく退出を許される始末であった。

西方耕地のかかし