近頃では、日本の家屋はいずれも規格通りの建築様式が取り入れられているので、全国何処へ行っても風土の特色を示した住居は、あまりみられなくなった。
昔は住居そのものが生産の場であり、生業の場であったので、町場は町場なりに、農村は農村なりに、その作業条件や自然の風土に適した建築がほどこされていた。越谷地域は稲作地帯であったのでその住居は一般に屋根は藁で葺き、作業用の広い土間と団欒用のイロリを備えていたが母屋に続き、馬を入れていた部屋とみられる曲り屋風の家屋が多かった。しかしその規模構造は同じ農家でも一様でなく、大きな差異がみられた。
今から約一五〇年程前の文政七年(一八二四)、幕府は村々の家屋調べを行った。このときの調査書上である「家別双紙図面書上帳」のうち、埼玉郡下蓮田村(現蓮田町)のものが残っている。これによると、当時下蓮田村の戸数は七六軒、いずれの家も土間・板間・雪隠・井戸・薪小屋を備えているが、部屋数では一部屋の家が一一軒、六部屋の家が三軒とその差が大きい。それでも三部屋と四部屋の家を合せると、全体の六〇%近くを占めるので、この程度が標準的な部屋数であったとみられる。またこの居間の敷物をみると、莚や薄縁を用いている家が五一軒も数えられる一方、畳を用いている家は、寺院や名主宅を含め上層農民とみられる八軒にすぎない。
このほか一部が畳敷であとは莚を用いている家が一六軒であり、当時畳を使用できた農家はきわめて限られた家にすぎなかったのが知れる。越谷地域は蓮田村に近く、また水田稲作地帯として同じ条件のもとにあったので、越谷地域の農家もおよそ蓮田村と同様な状態であったとみられる。
また、幕府は早くから身分不相応な家を建てるべからずとして、士農工商の身分制を基本に、その建築様式をきびしく規制していたので、農民が玄関・式台・天井・梁間・付書院などを自由につけることはできなかった。さらにこの建築基準は、村の内においても、その身分・格式あるいは本家分家などの関係により、村の慣例として規制されることもあった。
安政元年(一八五四)九月、西方村(現相模町)の嘉兵衛が家を改築した際、屋根の下に庇を設けたところ、寛永四年(一六二七)の検地で名請した旧家のほかは、門や塀、それに庇などはつけてはならないと村役人から注意をうけ、庇を取払うよう達せられていた。
このように江戸時代の住居は、その身分や家格によってきびしく制約されていたのである。
現在は、身分や家格にはまったく関係なく、その経済力で自由に家の建築ができるが、公共的なモラルとして、家屋の建築には建蔽率や道路幅など種々な規制が設けられており自由な建築が制約されているのは今も変りはない。