忍藩の借金

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 江戸時代越谷市のうち、見田方・東方・南百・別府・麦塚・千疋・四条(以上現大成町)と、それに草加市の柿木を含めた八か村は、忍藩阿部家(文政六年松平家と代わる)の領地であり、通称この越谷地区の忍藩領地は柿木領と呼ばれていた。

 時は明和八年(一七七一)十二月、当時は幕府をはじめ、いづれの藩でも財政に苦しんでいたが、忍藩もこの例にもれず、藩経済の窮迫から、領内の農民にも借財を申入れる始末であった。
 このときの柿木領八か村の阿部家に対する融通金割当ては、金一七一〇両であった。割当てをうけた各村は、持高に応じて各農民に割ふりしたが、農民の中には、この融通金の調達に困り、田畑を質地にしたり、身代金の証文を入れたりして、ようやくこの融通金を調達したものもいた。
 返済の条件が、次年度の年貢米差引きで清算するということで間違いはないと思ったからである。

 ところが翌安永元年十月になり、阿部家は借金の一部を返済しただけで、残りの大部分は五か年の延期を通達してきた。驚いた農民は、約束違反の阿部家を責めたが、やむを得ずそれぞれ調達金の貸元である金主に、その返済期限の延期を求めた。
 しかし金主は連合してこの申出を拒否した。そこで再三にわたり阿部家にその善処方を嘆願したが、阿部家でも金主たちの説は成功しなかった。

 こうして苦境に立たされた柿ノ木領の農民三〇〇名は、同年十一月、江戸表の阿部家屋敷へ真接訴顧を決行するため、一同江戸へ向かった。これを知った柿ノ木領の村役人は後から一行を追駈け、千住宿でこれに追付き、責任をもって善処するという約束を示して一同を連れ戻した。
 この騒ぎの報告をうけた阿部家では、この強訴未遂一件の罪を責めたが、その事情を考慮し、強訴参加者一同から始末書を提出させて結着させた。

 一方農民側は阿部家に対する対応策をねり、再三にわたる督促にかかわらず年貢米の津出しを引延ばす戦術をとった。これに驚いた阿部家では、郡奉行その他の重役を派遣し、農民側との接衝にあたらせた。この際阿部家では借金返済と年貢納入は別個な性質のものである。借金の件は年貢上納のうえ話し合うのが筋である。このうえ年貢の津出しを拒否するというのは、阿部家を滅亡させる下心があってのことと受取られ、叛乱罪に相当すると迫った。

 これに対し農民側は質物でもある年貢米をこのまま納入すれば、金主は黙っておらず、容赦なく一同金主によって田畑をとられ、身代をとられ、農業を続けることができなくなる。これはひいては阿部家の存亡にかかわることにつながるであろうと反論した。しかし結局は阿部家借金の五か年延期は強行された。このため柿ノ木領農民は、阿部家がどんなに頼みこもうと、今後は絶対に調達金の申出には、応じないと申し合わせていた。

見田方宇田家長屋門