江戸時代越谷地域は幕府が定めた鷹場領域の中に含まれ、鳥を獲ることはもちろん魚猟も制限されるなどさまざまな規制をうけていた。それだけに鳥類の数はきわめて多かったので、密かに鳥を獲ってこれを商売にする者も少なくなかった。
宝暦六年(一七五六)二月、大沢町の住民五郎右衛門が、葛飾郡亀有村に常駐の公儀鳥見役により、密猟のかどで逮捕された。五郎右衛門は、かねて元荒川や花田古川などの周辺で、水鳥を捕獲し、これを江戸などで売捌いていのが発覚したのである。
五郎右衛門の身柄は一時縄付きのまま、大沢町の当番年寄伊右衛門方に預けられた。ところがその夜五郎右衛門は縄抜けして逃亡してしまった。このため囚人をとり逃がした責任により、身柄を預かった当番年寄伊右衛門はじめ、番人足にあたった五郎右衛門の五人組四人が、江戸町奉行依田和泉守番所に入牢を命ぜられた。伊右衛門と同じ当番年寄を勤めていた太郎右衛門は、運よく囚人を預からなかったとはいえ、自分が咎めにあわなかったのを心苦しく思い、井戸に身を投じて自殺をはかった。幸い救助されたものの吟味が済んで出牢した伊右衛門が、入牢中の疲労がもとで病死したのを聞くと、逆上して狂人になってしまった。
一方大沢町では、逃亡した犯人捜索のため町内一同で犯人の行方を追ったが、奉行所から命ぜられた所定の期日までに五郎右衛門をさがしだすことができなかったので、名主弥兵衛と年寄源兵衛、同じく伊兵衛の三名が手鎖の罰を受けた。結局幕府でも犯人を検挙することができず、同年十二月一件はひとまず迷宮入りとして処理された。このときの奉行所裁決では、取締り不届きのかどで名主弥兵衛は名主役免職、弥兵衛の養子理兵衛と、囚人の番人足にあたった五人組四人の者が五日間の手鎖、犯人逃亡の手引をしたとの容疑をかけられた伊七が所払い、そのほか過料(罰金)やお叱りの罰をうけた者も多数あった。
こうして大沢町成立以来の世襲名主を受継いできた江沢弥兵衛は、この一件で名主役を免ぜられたが、弥兵衛はすでにこのことを予測し、一件が発生すると同時に俄かに理兵衛を養子に迎え、理兵衛に名主役を譲る手筈をきめていた。このため江沢氏はそのまま世襲名主を保つことができたが、この一件による出費は莫大なもので、江沢氏はこの資金調達のため田畑三か所を質流地にしたという。
これに対し大沢町民は、近来不幸な事件が連続して起り、一同迷惑しているのは、平常名主弥兵衛が無慈悲なほどの厳しい町政を行ってきた天罰であると酷評し、弥兵衛を責めていた。一方弥兵衛は町政をあづかる身として、この位のことでへこたれては役人は勤まらない。今後とも町役人になる者は腹を固め覚悟をきめて町政を執行すべきである、と述懐していたという。