異常気象

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 昭和五十二年八月六日(旧暦六月二十二日)夜から始まった関東地方の雨は、集中豪雨を交えて二十日間以上も続き、農作物に、家屋・道路の浸水に大きな被害をもたらした。こうした異常気象は近頃珍しい現象であるが、過去にもこのような事例はしばしば記録に残されている。例えば文化五年(一八〇八)の夏は、六月中旬(新暦七月中旬)より八月中旬(同十月初旬)までのおよそ二か月間、霖雨(しとしと雨)が降り続き、関東一円の大凶作を招いている。天保九年(一八三八)の夏も「冷気がち、帷子(夏衣)用いず候ても間に合、夏の内ようよう両三度用候」とあり日照りが少ない年であった。ことに弘化三年(一八四六)の夏は、六月十一日(新暦八月四日)から七月九日(同九月二日)までの約一か月間にわたり、六月十八日の晴れ間を除いて雨の日が続いた。この間六月二十一日には集中豪雨のため二郷半領笹塚村(現三郷市)から江戸川が氾濫、二郷半領をはじめ松伏領、葛西領に水が入った。同二十八日には利根川通り本川俣(現羽生市)の堤防、同三十日には南篠崎村(現加須市)の堤防が決潰、羽生領・幸手領に水が入った。同じく三十日には元荒川が洪水となり、越谷地域も危険な状態になったが、地域住民は七月五日まで一丸となって堤防に土俵を積上げ、その氾濫の防止に努めた結果、越谷地域の水害はまぬがれている。その後幕末から明治のはじめにかけては毎年のように夏季の冷気に襲われて農作物に不作が続き、政情不安によるインフレに拍車をかけた。

 また『産社祭礼帳』によると、明治三十年は春から秋にかけて霜雨が降り続いたため、「日光ヲ見ルノ日少キ故気候随ッテ冷カ」とあり例年ならば猛暑の最中にあたる三番の田草取りにおいても昼休みの必要がなかったという。この冷気のため、きゅうり、白瓜・木綿・大豆等の畑作は全滅、米作も大不作であった。同三十五年も、「三伏ノ暑中に入リテモ、陰々濠々スコブル冷気デ、実ニ土用中重ネ着ヲスル位デ有ッタ」。同四十一年も、はじめ天候は順調であったが「八月中旬俄然低気圧襲来、忽ち気温下降し、濠雨沛然として降りしきり」、荒川の氾濫で干住・浅草地域が大水害を蒙ったという。

 近い例では昭和三年、同八年、同二十三年、同二十九年、同三十一年と寒い夏であった。ことに二十九年の夏は「植付・除草等には綿入れの野良着にて、甚しき日は焚火すること」があったという。三十一年も八月二十九日から冷雨が降り続き、九月中は二十日間、十月中は二十五日間が雨あるいは曇りの日であった。

 このように過去にあっても、四季の天候は必ずしも順調に経過するとは限らなかったのである。そのうえ日本は台風国といわれる通り、たとえ順調な天候であっても、台風の襲来で、一朝にして大水害を蒙ることも珍しくなかった。関東では明治二十三年、同四十三年、昭和二十二年がその代表的な被害年であった。

 我々は、こうした過去の不順な天候や水害に対処して生きてきた先人の労苦をふまえ、天候不順に狼狽しないだけのふだんの心掛けとその対策を講じておく必要があると思われる。つまり、物質欠乏に耐えうる根性の養成もその一つといえよう。

昭和22年の水害時における元荒川大沢橋近辺