代官 吉岡次郎右衛門

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 文化八年(一八一一)代官山田茂左衛門の後をうけて、吉岡次郎右衛門が越谷のうち大泊・船渡・大杉・大吉・増森・増林・中嶋・西方の各村を支配することになった。
 当時年貢は、その年の収穫を検査した上そのつど年貢高をきめる検見取方法ではなく、豊作不作に関係なく数か年の期限をきり、一定のきまった量を年貢高とする定免(じょうめん)制が広く採用されていた。
 西方村(現相模町)の場合、当時十か年期定免で五一三・五石(四斗俵約一二八三俵余)反当り平均約一俵余の年貢をおさめていた。
 ところが文政元年(一八一八)は、定免期限の切替年であったが、代官吉岡はこの切替時に一二〇石の増米を要求してきた。
 村人は幾度も寄合(よりあ)いを開いてその対策を協議した結果、一二〇石の増租は過酷であるとして検見取を願い出た。検見の結果この年は、五六四・八石の年貢が課せられた。
 村人は翌文政二年も検見取を願い出たが、この年は豊作のせいもあったが実に六二〇・四石の課徴であった。

 続いて文政三年も検見を願い五三二・八石の課徴、何れも予想をはるかに上まわる年貢であり、村人は無慈悲不仁の役人であると代官吉岡を深く怨んだ。
 しかも、この検見にあたり雨が降っていても笠をさすことも許さず、ずぶぬれのまま検見の案内をつとめさせたため、案内の村役人の中には、病でたおれたものもいたという。

 このほか代官吉岡は、幕府体制の秩序を維持するため、幕府役人に対する敬礼を厳重に履行するよう訓示したり、生産耕地を拡大するため、荒地や湿地の開発を奨励したり、また水害にかかりやすい低地には掘揚田(一部の田の土を掘って周囲の田に土盛をする)を実施するよう勧告したりした。
 このうち掘揚田の実施では埼玉郡樋遣川村(現加須市)のようにかなりの収穫をあげた地方もあった。

 また吉岡は、村内の窮民には救恤金を出したり、村内の治安維持をはかるため、村々の連合取締組合を結成させるなど、幕府にとってはなかなか積極性のある能吏であったようである。

 やがて文政四年(一八二一)十か年間にわたって越谷地域八か村を支配した代官吉岡は当地を去り、かわって当地は代官大原四郎右衛門と川崎平右衛門の立会預り所となった。

 一説にはこのとき吉岡は、吉岡の当時の支配所、常州稲敷郡生板村など十二か村の年貢減免のための農民越訴ならびにその後度重なる農民からの訴訟をうけ、その責任を問われて文政四年、代官を罷免されたともいわれる。ともかく大原四郎右衛門などの立会預り所となった西方村は、なおも検見取りを願い続けたが、文政八年、ようやく五三五・六石の定免をうけることで年貢増徴一件に終止符をうつことになった。

検見の様子