松伏の女主人殺し

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 自給自足経済を基本とした農村にも、貨幣がさかんに使われるようになると、博奕(賭博)、強盗、殺人など貨幣を媒介とした凶悪な犯罪が頻繁に発生してきた。

 寛政十二年(一八〇〇)六月にも一見平和な農村に見えた葛飾郡松伏村に、強盗殺人事件が突発し、農家の人々を驚かせた。この事件の発生後通報をうけてかけつけた村役人の取調べが行われたが、事件の関係者による供述によると、松伏村百姓庄右衛門の後家、はつの家に、夜中盗賊が押入り、下男の富五郎を縛りあげ、はつを殺害して十四両一分二朱の金子を奪い取って逃げたということであった。

 村役人はただちに代官中村八太夫役所にこれを届出たが、役所からは手代が出張して調査にあたった。ところが盗まれた金子が、下男富五郎の部屋の莚の下から発見されたので、当の富五郎は其の場で逮捕され、勘定奉行菅沼下野守掛りで吟味をうけることになった。取り調べが進むにつれ事件の経過が判明した。

 下手人富五郎は、かねてから同村香取山等で、催されていた博奕にしばしば参加していたが、博奕に負けて借金に苦しんでいた。そこで主人はつの所持金を盗みとる計画を立て、博奕仲間の村内松之助としめし合わせ、はつの部屋に忍び入った。

 物音で目を覚したはつに対し、富五郎はその首に縄をまきつけ殺害した。そのうえ松之助に金二両を渡し、富五郎自らを縛らせた。つまり外からの盗賊と見せかけるためである。

 そのうえで同家の下女のとよを呼び起こして富五郎の縄を解かせ、抜刀した盗賊におそわれたと証言するように言いふくめたのち、近所にこの事件をしらせたものであるという。

 一件の取り調べは約九か月かかり、翌享和元年三月、奉行所の判決があった。

 当時主人殺しはとくに重罪であり、富五郎は二日晒、一日引廻し、鋸挽の上はりつけという極刑、松之助は江戸市中引廻しの上獄門、下女とよは富五郎の言いふくめどおり、奉行所で偽りの証言をしたという罪で押込(定められた日数は家から外へ出られない)の罰、富五郎と博奕を打った村内五人の者は重敲、村役人はお叱り、またこの奉行所取調べで明るみに出た富五郎など博奕相手の無宿者を雇っていた大川戸村の百姓は科料銭三貫文と、それぞれの申渡しがあった。

 相互信頼によってなりたっていた村落共同体は、すでに貨幣経済の進行によって人間同士の信頼関係も崩され、自分の生命財産は自分で守らねばならないという、きびしい世相に進展していたのであった。

松伏の香取神社