伊奈忠尊
関東代官頭伊奈半十郎忠治から一〇代、二〇〇年にわたり、関東の地方支配に勢威をふるった伊奈家は、寛政四年(一七九二)三月九日、伊奈右近将監忠尊の「さまざまの不埒」によって幕府の咎めをうけ、お家は断絶した。
当時伊奈氏といえば、関東の庶民から神仏のように信望され、明和元年(一七六四)の中山道筋の助郷騒動、天明元年(一七八一)の上州絹綿貫目改所設置による高崎藩の農民一揆、天明七年の江戸の打ちこわし大騒動など、いずれも「伊奈殿の徳」により伊奈氏によって鎮撫収拾されたものである。
伊奈氏でなければ治まらないほどのこうした勲功を認めながら、幕府はなぜ伊奈家を廃絶させたのであろうか。紙数の関係もあるのでその概略を記すことしかできないが、くわしいことはなにかの機会に発表したい。まず伊奈忠尊の事歴を簡単にみておこう。
忠尊は、実は備中松山五万石の城主板倉周防守勝澄の一一男で、明和元年(一七六四)の生まれ、はじめ弾正勝寿といったが、安永七年(一七七八)伊奈忠敬の聟養子となり半左衛門忠尊と称した。忠尊一五歳のときである。同年六月六日伊奈家を継ぎ関東郡代を世襲したが、父忠敬と同じく奥右筆組頭の次席という老中支配の格式が与えられた。
次いで天明四年(一七八四)四月二十九日、勘定奉行の支配から正式に老中の支配に移され、翌五年七月二十四日、勘定吟味役の上首に任ぜられ同時に幕政に参与することを命ぜられた。続いて同七年六月八日御小姓組番頭の格に任ぜられ、従五位下摂津守に叙任、のち右近将監を称したが、寛政四年三月、その職とともに知行所も奪われ失脚した。さらに同年九月十八日再び忠尊の罪状が現われ、実兄板倉勝政の家から改めて南部内蔵頭の家にお預け替となった。寛政六年八月十九日南部家で没す。ときに忠尊三十一歳であった。忠尊失脚の直接の原因は、忠尊の増長とお家の内紛にあった。
もともと伊奈家は初代忠治のときから、開発新田十分の一の収入を家禄として与えられる特権をもっていた。ところが元禄八年武蔵国幕領総検地によって新田が本田に組み入れられ伊奈家の新田分が不明になったという理由から伊奈氏当時の支配高二二万石のうち、貞享三年(一六八六)から元禄八年までの一〇か年を平均した収納高の十分の一が改めて伊奈家にあたえられることになった。それでも伊奈家の知行所赤山領三九六〇石を加えると、その家禄はおよそ三万石の大名家に比肩される所得があったとみられる。
伊奈氏はこうした家禄を基盤に四〇〇名近い家臣を抱え、関東三〇余万石の天領支配にあたるとともに、河川の修治や災害の復旧など数々の功績を残した。こうした名門伊奈家を支えたのは、実は根強い基盤をもって在地を掌握していた家臣らであったが、これら家臣のなかに越ヶ谷領神明下村の会田七左衛門、松伏領大川戸村の杉浦五太夫などを挙げることができる。ことにこの両氏は伊奈家の内紛にかかわり合いをもったが、その必死な努力も報いられず、伊奈家の廃絶に涙をのんだ一人であった。