関東郡代伊奈忠尊と大川戸村杉浦氏(その二)

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杉浦氏の代々

 関東郡代伊奈氏の家臣大川戸村の杉浦氏は、その初代を杉浦五郎右衛門定政と称し慶長五年(一六〇〇)関ケ原戦の前哨戦で戦死した美濃国竹ケ鼻城主杉浦定元の次男であったが、関東代官頭伊奈備前守忠次と縁戚にあった関係から、忠次のもとにあって代官を勤めた。この間定政は、慶長十三年(一六〇八)船橋大神宮の造営に添奉行などを勤め、また地方支配の確立に活躍していたが、慶長十八年支配所秩父の検見先で病没した。

 その後杉浦氏は故あって、先に拝領していた大川戸村の陣屋御殿に浪居していたが、享保十五年(一七三〇)、七代勝明の代に再び伊奈家に仕え、赤山陣屋内に屋敷を与えられるまでになった。はじめ勝明は切米二五俵、野扶持五人扶持で赤山陣屋の勝手方に勤務したが、同十七年には御用掛りに転じ、元文二年(一七三七)取立方定役、同四年杁橋役ならびに浅草御蔵立会兼帯と職歴を重ね、宝暦七年(一七五七)関東川々御普請惣掛り役、同十年家筋由緒ある旨にて御用人格に昇格した。

 その子五太夫勝定も明和八年(一七七一)から伊奈家に出仕し、御用人見習から御目付格に昇格、安永二年(一七七三)には御用人格となり、天明七年(一七八七)の江戸飢謹に御救方御用掛りとして非常事態の収拾を見事に果たした。寛政元年(一七八九)、御番頭本役、ならびに御年貢米未進吟味掛りに進み、同年九月、奥州伊達家の貸金二万両の督促回収に出向、米八五〇〇石を滞りなく江戸に回送して無事この大任を果たした。同二年、勝定は部屋住頭取役に任ぜられ、定扶持三人扶持を与えられて譜代の老臣なみの取扱いをうけた。

 またその子五郎右衛門勝俊も、安永七年(一七七八)から伊奈家に出仕し、御勘定場詰を勤めていたが同九年の関東洪水には川々普請掛りを命ぜられ、鬼怒川通りに出張している。さらに天明六年(一七八六)の関東大洪水にも、水難民救助のため千住宿に出向し、飢人五七〇〇余人の救済にあたった。このほか野州・上州筋悪人逮捕に功績を残し天明八年には御目付格に昇格して書留役上座、翌寛政元年四月勘定頭役に進み父子ともども伊奈家中の重立った家臣として縦横の働きをみせた。

 伊奈家の家臣にはこうした在地の郷士や有力農民が多かったので、在地の掌握は強力でありその支配機構は隅々まで行届いていたのである。このため関東郡代伊奈家といえば、その勢威は関東はおろか、日本国中にその名が鳴り響いており、伊奈家は、盤石の安泰に置かれていたと人びとから信じられていた。ところが忠尊と家臣との間に不和が生じるに及び、その屋台骨は一挙にくずれおちる運命をまねいた。

 このさき伊奈忠尊は、家督の相続をめぐり、養子半左衛門忠善を排斥して妾八尾の子岩之丞を家督にたてようとはかり、これを諌めた伊奈家譜代の重臣永田半太夫父子を理由もあかさず赤山の屋敷に逼塞(押込)を命じていた。

大川戸杉浦家