伊奈家の内紛
そればかりでなく、伊奈家が安永三年に幕府から借用した金一万五〇〇〇両の返納延期を幕府に願った際、これが許されなかったのに憤慨し、関東郡代の職に替えても、強って返納延期を認めさせるなどと放言し、病気を理由に登城を断って目に余る放蕩を重ねた。
忠敬――忠尊(養 子)―――忠善(養子)
―美善(忠尊妻) ――岩之丞(妾腹)
―忠善
この忠尊の公儀を畏れぬ傲慢とその不行跡に、伊奈家の将来を憂慮した杉浦五太夫はじめ心ある家臣は、忠尊を隠居させ忠善を家督に立てて伊奈家の建直しをはかろうとした。すなわち五太夫らは、しばしば忠尊に諌言書を提出してその改心を迫ったり、忠尊の実兄寺社奉行板倉周防守に実情を内訴したりした。この家臣有志による反忠尊派の策動に激怒した忠尊は、寛政三年六月、杉浦五太夫父子・豊島庄七・会田七左衛門の四名を伊奈家屋敷にとじこめ、同志五〇名の家臣に謹慎を申し渡した。このうち邸内に監禁された杉浦五太夫勝定は、同年八月二十四日、伊奈家の将来を案じながら病没した。時に年六十五歳。
続いて同年十一月、板倉周防守による伊奈家中の取調べが行われ永田父子が永牢に処せられたのをはじめ、杉浦五郎右衛門・豊島庄七・会田七左衛門も本所牢に移され、同志の家臣ことごとく追放に処せられた。幕府はこの厳しい処断に不満を示し、家事不取締りのかどで忠尊を出仕止めの処分にしたが、翌寛政四年一月、忠尊の出仕どめを解いた。
ところがこの先寛政三年十月、養子忠善が赤山の検見先から身の危険を感じて出奔した事実を幕府に隠していたなど、忠尊の数々の不埒が露顕し、同年三月九日関東郡代を罷免、知行地没収のうえその身柄は板倉周防守にお預けとなった。ここに二〇〇年にわたった関東郡代伊奈家は、ついに廃絶するに至ったのである。
さらに同年六月四日、行方不明であった忠善が、比叡山の隠れ先から又従兄の松平甲斐守邸に連れ戻されるに及び、事の真相が判明、家臣らの無罪がわかり、同六日永田父子、ならびに杉浦五郎右衛門らは本所牢から解き放された。ここで幕府は再び忠尊・忠善の吟味を再開したが、同年九月十八日、忠尊父子を対決させてその罪をはっきりさせるのは、義において偲びがたいとし、忠尊は南部内蔵頭にお預け替えとした。忠善も伊奈家の断絶をかえりみず、軽はずみに亡命したのは未熟の至りだとして松平甲斐守にお預けとなった。幕府はこの時点で伊奈忠尊や忠善の処分のみでなく関東郡代伊奈家の機構そのものもあえて廃絶させたが、これは関東を二〇〇年にわたって領主のごとく支配した伊奈家の巨大な勢力を恐れたからにほかならない。
ともかく牢内から解放された杉浦氏や会田氏らは、その後幾多の困難にあいながらも、在地にあって家を再興し、こんどは村のため農民のためつくしてきたのは、すでに人びとの知るところである。