十一月一日からの狩猟解禁によって、ハンターがいっせいに活動を開始した。しかし越谷地域はほぼ禁猟地区であるので、当地域で狩猟をすると罰せられるのはいうまでもない。もとより越谷地域は、江戸時代から御留場とも称された江戸十里四方の御鷹場に含まれ、一般人の狩猟は固く禁じられていた。
このうち江戸五里四方の地域内にあたる西方村など大相模地域は、拳場と称された将軍家の鷹場、七左衛門村(現七左町)など出羽地域は徳川御三家の一つである紀州家の鷹場、その他越ヶ谷・増林などは鷹匠頭戸田五介支配の捉飼場に分かれていた。
このそれぞれに分かれていた鷹場の境には榜示杭が打たれこの領域を犯すことは厳しく禁ぜられていた。文化十三年(一八一六)三月、戸田五介組の鷹匠一行が捉飼場に向かう途中、西方村(現相模町)字下手耕地を通りかかったが、たまたまそこの蓮田で黒鶴をみつけ、鷹を使ってこれを捕えた。これを見た西方村の農民は、すぐさま村役人とともに鷹匠一行を追跡し、大相模不動尊裏の堤上でこれに追いつくと、鷹匠を責めて獲物をとり返えそうとして争論になった。
つまり西方村の農民は、将軍家鷹場内で、無断で狩猟を行ったのは、御定法に背く場所違いの行為であることに抗議したのである。このとき小林村(現東越谷)の元廻野り(捉飼場の監視役)佐源次がかけつけて中に入り、これを示談ですまそうとした。ところが鷹匠はことの外立腹してとりあわず、話し合いはまとまらなかった。西方村の農民はもっての外とばかり、一件を訴状に認めて将軍家鷹場の監視役、葛西役所の公儀鳥見役にこれを注進した。
そこで鳥見役人はこの訴状をもって早速江戸城に登城し、鷹匠頭戸田五介に会ってこの一件に対する指示を求めた。戸田五介はこのとき鳥見役人に対し、内分の取計らい方を依頼するとともに、戸田五介配下の役人を西方村に派遣し、西方村農民の説得にあたらせた。この結果元野廻役佐源次と、鷹匠からの始末書二通を書入れ、西方村農民に謝罪するという形で一件は落着した。この始末書の内容は、戸田五介組の鷹匠が、捉飼場領域である小林村で黒鶴を捕獲したところ、獲物は鷹の手を離れ元荒川を越えて将軍家鷹場の西方村に越境した。この越境の鶴を捕えるには、本来当地の村役人にこれを報告し、その差図をうけなければならないところ、これに立会っていた佐源次が村役人への注進が遅れ、今回の不始末を引起すに至った。以後きっと気をつける、というものであった。
この一件は鳥見役より奉行所へ報告されたのか、勘定奉行柳生主膳正の知るところとなり、同年五月、代官大貫次右衛門を通じ、御場所内取締りの御定法を守り、適切な処置をしたのは殊勝なことであったという意味の褒書が、代官直々に西方村に手渡された。
申渡 八条領西方村役人
右は御場所内取締宜、御定法之儀無等閑相守奇特之筋も有之、御締行届出精之趣相聞候間、村役人并小前之者迄誉置可申旨、柳生主膳正殿被仰渡候ニ付申渡ス
子五月((文化十三年))
さしも威厳を誇っていた鷹匠も、予期しなかったこの農民の抗議に、さぞかし顔色を失ったことであろう。