小作人

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 昭和二十三年から二十五年にかけての農地改革により、ほとんどの小作農は自作農として再出発した。それ以前、つまり江戸時代の後半から戦後の農地解放までは、何十町あるいは何百町という土地を所有した大地主も少なくなかった。これら地主はその集積した多くの土地をその年季と小作料を定め他人に請負わせて耕作させたが、その経営を維持するため、小作料を納入しない小作農に対しては、きびしい措置をとることが珍しくなかった。

 宝暦六年(一七五六)谷中村の次郎兵衛は、老母をかかえて家内三人暮し、同村の地主から田畑を借りうけ、小作を請負って生計を立てていたが、この年の水害による不作のため、金二分の小作料を払えなかった。次郎兵衛は、五人組の者などを頼み、小作料の延期を願ったが許されず、小作地を取り上げられてその住家も追われた。このため居所を失った次郎兵衛は、寺の境内地の一隅を借り、日雇いなどして露命をつなぐ始末であった。

 しかしこれを非道として地主を訴えることはできなかった。すなわち小作を請負うときに入れる証文には、小作料を「もし相滞り候はゝ受人方にて引請、急度弁済仕り、貴殿へ少しも御苦労を掛け申間敷候」と記し、さらに「もし小作人御気に入り申さず候か、又は田畑御入用に御座候はば、何時なりとも請負田畑御取放し」してもよいとの一札を入れるのが普通であったからである。

 しかし未納の小作料を身代などで代償させ請負小作を続けさせることもあった。文化十年(一八一三)一月、同じく谷中村の繁右衛門は、小作料のうち年々の未納分が金五両と永一〇〇文余につもってしまった。このため繁右衛門は地主に詑を入れ、伜の富太郎を地主の家に奉公させるので、その給金をもって未納の小作料にあててほしいと願い許されている。土地や家を持たない小作農は、ぎりぎりの生活をしていたので、一度小作料を未納すると、これを弁済する目あてがなかったからである。

 こうして個々の小作農は、弱い立場にあったが、小作農どうしが結束し、地主に対抗して小作料の値上げを阻止したり、その引き下げを迫ったりすることもあった。たとえば享和二年(一八〇二)の水害後、西方村の小作農三〇〇人が、小作料の減免を願って奉行所に直訴したが、このため地主側は小作料を大幅に減免せざるを得なかった例もある。

 江戸幕府が倒れて明治以降になると、これら小作農は組織をつくり、生活権を主張して強力に地主に対抗するようになった。このため地主・小作の対立は深刻な社会問題となったが、農地解放後は目立たなくなった。しかしこれにかわって、会社や工場における労使の対立がはげしさを増していった。これも時代の一つの流れであろう。

谷中の観音堂