越谷山人

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 江戸時代の狂歌師越谷山人は、越ヶ谷に縁のある文化人に違いないが、はたして何処の誰であったか今のところつまびらかにできない。しかし越谷地域の旧家には、越谷山人と署名ある掛軸や画賛を秘蔵している家がきわめて多い。このなかに、文政十年(一八二七)江戸幕府から孝子として褒賞された越ヶ谷町の馬士文太郎の徳をたたえた賛文の掛軸が二幅ほど確認されている。

 また一〇〇歳の長寿を保ち、文政九年幕府から寿という文字が記された「おぼん」等を下賜されている登戸村名主関根八右衛門の母堂をたたえた画賛がある。これには「武蔵国登戸の里正(名主)関根氏は、予の若き頃からの友である。このたび母堂が長寿を賞され、幕府からさまざまな御下賜品を頂いたが、羨ましい限りである」との要旨が記され、

  西王母が もゝとせの花咲きそめて 其名もとしも 雲の登戸

という歌がしたためられている。

 さらに天保元年(一八三〇)、忍藩柿ノ木領八か村の割役名主宇田長左衛門の母堂、故貞歌尼を偲んだ画賛が宇田家に秘蔵されている。これには貞歌尼が生存中「つねに物読み 和歌を詠じ給いけるも、星移り霜替りて、けふゆく慈明の忌になりき」とて貞歌尼の思い出を綴り、

  おのが身の 老ゆく事もおもほえず 待くらしつゝ園の草花

との歌を記している。

 つまり越谷山人は、登戸村の関根家や、見田方村の宇田家などと親しい間柄であり、かつ越ヶ谷町の文太郎をよく知っていることから、越谷地域の文人であったのは確かである。山人は、南柯堂・鱗斉・一魲などの号を用いていたが、その生年は、たとえば「文政十丁亥文月 越谷山人南何柯堂鱗斉時七十有二」などとある画賛の署名からその年を逆算すると、宝暦五年(一七五五)の生れである。

 没年は不明であるが、越谷山人自らの作品を模写して巻物におさめた一巻が大沢町の秦野家に秘蔵されている。この奥書の署名によると、「天保甲午皐月 八十翁越谷山人」とあるので、少なくとも天保五年(一八三四)齢八〇までは健在であったことが知れる。

 また山人の代表的な作品の一つに、大沢町の同じく秦野家所蔵による「丙子(文化十三年)春日、越谷山人麟斉一魲戯述」とある狂歌百人一首「闇夜礫自叙」がある。この冊子には、たとえば

  謙徳公

  ふたおやのゆるさぬ恋に義理立てて 身のいたづらになりぬべき哉

と百人一首をもじった狂歌が記され、それとともに若い男女のかけ落姿が画かれている。しかもこれら一枚一枚の独立した絵は、すかしてみると重なりあった陰の絵と、また一対の絵になるように工夫されている。越谷山人のすぐれた技法がここにみられる。

 因みに大沢町の世襲名主江沢氏が、天保年間に記述した『大沢町古馬筥』のなかに、江沢一楽は越谷山人なりとの朱書が付されていたので、越谷山人とはあるいは一楽翁こと江沢昭鳳であったかも知れない。

越谷山人画賛の一部(大沢秦野家蔵)