身代奉公人懐胎一件
江戸時代一定の年季をきめて前借金を受取り、主家に住込んで働く者を身代(みのしろ)奉公人と称した。前借金はそのまま身代(みがわり)金であったからである。この時主家と前借人との間で取り交される証文は奉公人請状といわれ、「この者は確かなる者である。この者の奉公についてはよそから文句を言う者はいない。万一この者が年季途中逃亡したりした時は、三日のうちに訊ねだし、持逃げした品物とともに主家にお返しする。もしこの者が長患いするか気に入らない時は、いつでも暇を出して下さい。そのとき代りの者を差出すか身代金を返済するか、お望み次第にいたし、決して貴方へは御迷惑をおかけいたしません」という内容の一札を入れるのが普通であった。これら奉公人の多くは下男下女と呼ばれ、主家の農作業や家事の手伝いに従事したが、なかには体をこわしたり、奉公の辛さに耐えきれず、年季途中で逃げ帰る者も珍しくなかった。
文化四年(一八〇七)十二月、登戸村(現越谷市)の後家〝あき〟が、生活に困り一人娘の〝かる〟を金九両の身代金で村内の農家に奉公に差出した。ところがかるは、金九両の身代金のうち金六両分の年季を勤めたところで、奉公を勤めかね家に逃帰った。このため母の〝あき〟は残金三両の返済に困り、その代償として間口二間(約三・六メートル)、奥行五間の居宅と間口一間、奥行二間の物置を主家に差出すことを願って許された。家を失った〝あき〟は親類に引取られることになったが、家恋し母恋しで暇をとった娘は、恐らく母と一緒にくらすことはできず、再び母と離れ離れの生活をするほかなかったであろう。
また天明元年(一七八一)十二月足立郡金右衛門新田(現草加市)の百姓庄左衛門は困窮のすえ娘〝てう〟を埼玉県青柳村(現草加市)百姓伝左衛門方へ身代金四両一分で二か年季の奉公に差出した。ところが〝てう〟は、翌二年四月、体の具合が悪いことを理由に実家に戻った。庄左衛門は困惑しよくよく問いただしたところ、てうは主家伝左衛門の伜武吉に数回手ごめにあい、懐胎したことを打明けた。驚いた庄左衛門は、親類である善兵衛新田の百姓孫右衛門を介して、伝左衛門方にかけ合った。これに対し伝左衛門方では、伜武吉の仕業に違いないようだが、今更彼是申しても決着つかない。したがって〝てう〟の身代金は勘弁するので〝てう〟を庄左衛門方で引取るよう申渡した。孫右衛門はこれを不満とし、〝てう〟は初産なので生死の程もわからない。安産の上は格別いずれにも出産迄は伝左衛門方で養生させてほしいと願った。ところが伝左衛門方では、召使いの女であるのでそのような処置はとれない。身代金を容赦した上は言い分はない筈と主張して談合に応じなかった。
そこで孫右衛門は、庄左衛門が困窮のあまり娘を作奉公に出したもので、決して妻奉公に差出した訳ではない。このままでは生計不如意のため、てうの介抱もできず、家屋を手放して退転するほかない。しかも〝てう〟が安産したとしても、以来縁組の妨げとなり難儀のほかないとの理由により、これを支配飯塚伊兵衛役所へ出訴した。