身代奉公人哀話
身代奉公人不法懐胎による訴えをうけた飯塚伊兵衛役所では、早速伝左衛門方に対し、子細あれば返答書を認め双方役所に罷り出で対決いたすべし、との差紙を伝達した。
これに対し伝左衛門方では、伜武吉が〝てう〟に手を付けたため懐胎したので、身軽になるまで奉公勤めはできないとの申出があった。そこで〝てう〟を実家で引取るならば身代金を容赦する。しかし〝てう〟を我等方に差置く望みであるのなら、当方で介抱するが出産後は年季通りの奉公勤めを果すということで、すでに庄左衛門方と話しはついている筈である。それにもかかわらず出訴に及んだのは納得できない。誰の子であるか、しかとは分らないが武吉が手を付けたのは事実のようであるので致し方ない。それで望み通り〝てう〟が出産するまで当方で面倒をみる。ただし父庄左衛門が当方にきて〝てう〟の介抱をするように願いたい。両人の食扶持は当方で負担するので、難儀の筋はない筈である。との返答書を役所に出した。
つまり、父を呼び呼せて介抱させるということは、〝てう〟が主家の一員としてでなく、あくまで奉公人としての取扱いをうけることを示そうとしたものである。この結果は不明ながら、主人筋と召使いという厳しい身分関係のもとで、〝てう〟の将来は決して順調な経過を辿るとは限らなかったであろう。
また文政十三年(一八三〇)のこと、砂原村(現越谷市)の百姓治助は金二両一分の身代金で、年少の娘〝わき〟を同村の農家に一年季の契約で奉公に差出した。ところが〝わき〟は間もなく病にたおれ奉公を勤めかねて暇を願い出た。このため治助は金二両一分の身代金の返済に困り、身代金証文を年一割五分の利息による一か年季の借金証文に書替えた。しかし果してこの借金を返済できる目途があったかどうかは不明ながら、当時借金の返済に窮し夜逃げする例も少なくなかった。この時は人別送り状(移転届)を持たなかったので、張外し(戸籍から除かれる)といい、自動的に無宿者にされる定めであった。
この他、年不詳であるが、一家の働き手であった七左衛門村(現越谷市七左町)の幸次郎は、一家の生計に差支え、身代金をもって作奉公に出た。ところが逆に働き手を失った一家はその日くらしにも困る結果におちいった。これをみかねた七左衛門村の役人は、奉公先の主家に掛合い、残りの身代金を立替えて年季途中の幸次郎を家に帰した。しかし、いよいよ家計のやりくりに困窮した幸次郎はしかたなく老母と幼児を家に残し、夫婦共々再び身代奉公に出てしまった。
これを知った村役人は激怒して幸次郎を責めたが、幸次郎は詑証文を入れて謝罪するほか途はなかった。結局その事情により、家に残した老母と幼児を親類に預けることで夫婦して年季奉公に出ることが許されたが、一家揃って生活できる日は何時のことであったろう。当時田畑を所持しない農民は小作人あるいは水呑とも称され、身を粉にしながら働いても働いても生活を維持することは困難であったのである。それで累積借財の清算などのため身代奉公をする者が多かった。こうした身代奉公は、明治以降も紡績会社などでひろく採用されていたが、現在は表面的には影をひそめた。しかし社会の底辺で働いても働いても生活に恵まれない人びとがいないわけではない。
