文政八年(一八二五)十月、越ヶ谷本町三鷹屋嘉兵衛は、その親勘兵衛が野州結城町の商用先で急病でたおれたとの報せをうけたとき、親戚の者とともに越ヶ谷町の医師岩松元旦と石川安悦をともなって、勘兵衛を迎えに結城町へ駆けつけている。
医師岩松元旦は越ヶ谷町の医師であるのは確認できるが、石川安悦もおそらく越ヶ谷町の医師の一人であったろう。このうち岩松元旦は、文政五年(一八二二)年六七歳で没した同町の医師岩松良廸の子である。この岩松家の一族には、明和六年(一七六九)に没した同町の医師木原雲的、文化四年(一八〇七)に没した木原一学、明治十九年に年七八歳で没した木原道悦などの医師がいる。因みに現在蒲生で開業されている医師中尾氏は、岩松・木原両家の縁戚筋にあたるといわれる。しかし、これら医師の履歴やその事歴は、史料的にいずれも不明である。わずかに岩松元旦の一端の事歴が一つの史料から知れるのみである。
すなわち元旦は安政三年(一八五六)の八月に、関東取締出役によって逮捕され、奉行所の取調べをうけている。罪状はつまびらかでないが、四丁野村はじめ近隣三〇か村による元旦の釈放嘆願書によると「元旦は医業のかたわら読かきの指南をさずけており、師弟の間柄にある者も数多い。ことに若輩の者や不身持放蕩の者がいると、進んでこれを自宅に引取り、意見を加えて親切に教諭していたので、今般の次第に至り候」とある。したがってこれら門弟のなかから罪人がでたので、おそらくこれに連座したのかも知れない。
さらに嘆願書では「元旦は日ごろ病人に対しては、その遠近や昼夜の別、さらに貧富のわけへだてなく、風雨をいとわず病人を診てまわった。しかも困窮者からは金銭を受けとらずに医薬をほどこしたので、元旦に助けられた者は数えきれない。ことに当年の夏は暑さが厳しく、村びとのなかに熱病にかかる者が多かったが、元旦の手当をうけていずれも快方に向かっていた。こうしたとき突然元旦が逮捕されたので、病人の医薬が行き届かず、なかには病死する者や病状の悪化する者が続出し、一同当惑している。どうか格別の御慈悲で御憐愍(れんびん)の御沙汰を願いたい」と愁訴している。
この嘆願書を奉行所へ出すにあたり、四丁野村名主角太郎、神明下村名主保太郎が発起人になり、廻状をもって近隣村々名主の協力を願っていたが、この廻状の文言には「越ヶ谷町医師元旦が関東取締出役に逮捕され、只今吟味中であるが、老年であるので入牢すれば一命にかかわる。どうか近村のよしみで御加勢を願いたい」とある。これに対し村々はこれに協力して嘆願書に署名している。
その後、奉行所での元旦の取扱いは不明であるが、元旦は翌安政四年三月に没した。一説によると元旦は牢死したともいわれる。義俠心に富んだ当時の医師の一端がうかがえよう。
