八条の渡しと木売村西光院(その一)

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八条の渡し

 新暦四月は旧暦で弥生と称し、春酎(たけなわ)といった花の季節である。すでに越谷の桃や梅については、しばしばこれを紹介してきたので、今回は十方庵の『遊歴雑記』によって、隣村八条村(現八潮市)の渡し、並びに二郷半領木売村(現吉川町)西光寺の仏事について紹介してみよう。

 文化十年(一八一三)四月、江戸小日向町の僧侶釈大浄は、木売村の真言宗西光院の仏事を参観するため江戸を立った。この西光院は、もと親鸞上人の直弟子西光坊浄善が建立した真宗寺院であったが、戦国期の争乱に無住の廃寺となり、その後真言宗の僧侶が住職となって真言宗寺院に改められた。やがて江戸時代の万治年間(一六五八~六〇)本堂前の庭から親鸞上人の像としてはきわめて珍しい合掌姿の木像が掘り出され、修理がほどこされて御堂に安置された。この像を無垢の真影(みかげ)と称したが、土の中からむくむくと現われたのでこのように呼ばれたという。

 さて大浄は、千住から榎戸(現足立区花畑)に出て綾瀬川を渡り、八条の野道を中川に向かった。頃は四月(旧暦)の中旬で初夏を感じさせる日和であった。途中の道端や野には鉄線花、紫蘭草、杜若(やぶめうが)、百合、鷺草、九論草、草菖蒲などの花が咲き乱れ、この間を雲雀、ほととぎす、葭切などの小鳥がさえずり遊び、くだくだしい田舎道も退屈することはなかった。

 やがて八条の渡し場に至ると、ここは家数百余軒、街道に沿って銭湯や髪結、雑貨屋など軒を並べている。ことに渡し場の傍らに太田屋という大きな酒屋が店を構えているが、往来する人はいづれもここで一休みしていく。この日は特に木売村西光院に向かう江戸などからの参詣客で混雑していた。河岸場の主人の言うには、十四日にはおよそ九百余人、十五日には二千余人の客を渡したが今日はそれ以上の見込みである。このため三艘の渡し舟で、朝辰の刻(午前八時)より夕未の刻の終り(午後四時)まで舟を往来させたが船頭は休む暇もなかった。対岸までの渡し賃は銭五文であるが、十日には十三貫文余の収入があった、という。

 こうしたおびただしい参詣人の群に交って舟を待っていたが、折しも渡し舟が一艘岸に漕ぎよせてきたので、わたりに舟と対談し、木売村までの約束で舟に乗り移った。舟から眺める中川の景色は自然のままで、生い繁る葭葦のかなた、霞のようにつらなる新緑の林や木の間がくれの葺の家など、言うに言われぬ趣きであった。

 また川の中には所々に簗(やな)と称する魚を獲る仕掛けが設けられているが、船頭の言うには、鯉・鮒・鰻・鯰などの類がおびただしく獲れるという。事実舟を漕いで進むごと、藻の間から一、二寸(約三~六センチ)ほどの小魚が幾百匹となく水上へ刎上る。その動きははなはだ迅速なので、何という魚か見分けがつかなかったが船頭は「ざっこ」(雑魚)だという。すでにして二十余町(約二・二センチメートル)の川路をまたたく間に渡り、木売村の岸辺に着いた。ここから西光院までの道程は三町(三三〇メートル)ほどである。

八条の渡し跡