八条の渡しと木売村西光院(その二)

122~124 / 212ページ

原本の該当ページを見る

西光院と親鸞木像

 木売村西光院の山門は、表門・裏門とも瓦葺で造成され、手水鉢や石燈籠、生垣まで具えられて寺内ははなはだ華美である。これらの修築は、西光院の親鸞木像に参詣する人びとの多くなった近年のことである。ことに例年四月十四日から十六日までの三日間、「御取越」と称し、親鸞の木像を祀った真影堂で法会が執行されるが、このときは江戸からも群衆が参集して賑わう。

 この法会は、晨(しん)朝(ちょう)・迨(たい)夜(や)・初夜と三度の勤行法談が行われるが、とりわけ夜の法談が終って後、一村の老母をはじめ女房・娘たち一同が真影堂に集り、太鼓や鉦(かね)をたたきながら念仏を唱える。この念仏は一種独得のふしまわしをつけたもので、この間六、七人、あるいは八、九人ずつが交代で、手を叩き腰を振り、足拍子をとりながら子の刻(午前○時)まで賑やかに踊り続ける。これはいわゆる葛西念仏の踊りであるが、この村では西光院の真影堂を村の鎮守と思っているので、神楽の代わりの法楽であるという。

 江戸などからの参詣客は、およそは一泊して帰るが、なかには野田村高梨(現野田市)の「御取越」に参詣して翌々日帰る人もある。このため木売村の農家のなかには、三日の間夜着やふとんを準備して宿を貸す家もあり、据風呂を二つも三つも備えつけて客をもてなす家もある。これらの奉仕は、無垢の御真影に対する御奉公であるという。しかし参詣客のなかには農家に宿を借りる不便さを考え、木売村から六町ほどの道のりにある吉川町で旅宿する人も少なくない。吉川は江戸から宝珠花(現庄和町)への街道筋にあたる宿場で、旅籠や銭湯などもあるからである。ここより越ヶ谷の駅へは一里二十余町である。

 以上大浄は、中川通り八条の景観と西光院の仏事についてこのように述べている。なお西光院の親鸞木像は、同じく大浄によると、万治年間に境内の土のなかから掘り出されたものだが、掘り出した時はその継目ことごとく腐敗して破損がひどく、当時誰人の木像か不明であった。ことに聖人の木像はそのほとんどが数珠をつまぐった姿であるが、この像は手を合掌に組んでいるので見分けがつかなかったようである。ところが元禄年間、江戸本法寺通達院の高僧良秀が、下総国中戸へ向かった途中西光院に立寄り、この木像を鑑定した結果、疑いなく親鸞上人の像であることを見きわめた。

 そこで西光院の寺僧や一村の人びとは驚くとともに大いに喜び、この木像の継ぎ目から離れた合掌の手首を、組合法中や村役人加判の礼状にそえて良秀に譲った。そして西光院では新規に合掌の手首を製作し、破損個所に補修をほどこして漆で塗堅めた。このとき親鸞の白眼に、なにを間違ってか玉眼を入れたので、見るも無慙なものになった、といっている。

 現在西光院は、寺号を清浄寺と改められているが、ここには西念法師と刻まれた鎌倉時代のものと推定される方形の宝塔が残されている。寺伝などでは、西光院は親鸞の直弟子西念法師の開山で、西念の隠居寺といわれているが、十万庵の大浄は、西光坊が開山の住職寺と述べている。おそらく大浄は西念を西光と書誤ったのかもしれない。また同じく境内には正安三年(一三〇一)「南無仏」銘の青石塔婆が保存されており、これらは県の考古資料有形文化財に指定されている。

清浄寺境内内西念法師の墓石