江戸時代には、すべての人が誕生から死ぬまで、そして死んだ後までも特定の寺院の檀那でなければならなかった。これを檀家制度という。檀家制度は、はじめキリシタン宗徒の摘発のため設けられた制度であったが、人別帳(戸籍帳)にも人別送状(移動届)にも旅行(関所手形)にもその寺の証明を必要としたので、その人の信仰によって自由にその寺を変えたり寺から抜けたりすることはできなかった。しかし人びとはこうした檀那寺とは別にその信仰によって他宗派の神仏を熱心に崇敬し、これら寺社と交流することもあった。ことに越ヶ谷町では浄土宗天嶽寺が一町一寺の特権を付与されていたので、越ヶ谷町の住民になるには、すべて天嶽寺の檀那に改宗しなければならない定めであった。したがって他宗派から改宗した人は前の宗派をそのまま信仰し、二寺院以上にわたって交流する人も少なくなかった。
越ヶ谷本町三鷹屋嘉兵衛は、一町一寺の定めにより親代々天嶽寺の檀家であったが、日蓮宗を信仰し、毎年日蓮宗堀之内妙法寺(現杉並区)に初参詣をして御百度をあげ、御開帳をうけるならわしになっていた。またしばしば身延山へも登拝して信心を深めていた。
さらに文政七年(一八二四)十月、眼病を患った嘉兵衛は、駒木村(現流山市)の日蓮宗成願寺別当諏訪宮に心願をたて、眼病平癒の祈願を行っているが、その七年後の天保二年(一八三一)六月、眼病平癒の成就御礼として代金一七両二朱の燈籠一対を諏訪宮に奉納している。このときの諸掛りは、別当成願寺への奉納金などを含め、あわせて金二四両三分と八三文に及んでいた。なおこの石燈籠は、高さ九尺一寸の小松石で製作者は戸ヶ崎村(現三郷市)の石屋幸右衛門である。これには「越谷宿三鷹屋嘉兵衛」とあざやかに刻まれており、駒木の諏訪神社に現在でも完形のまま大切に保存されている。
また嘉兵衛は、天保十五年(一八四四)七月、嘉兵衛の妻うめが死去したとき、檀那寺である浄土宗天嶽寺で葬式を終えたあと、日蓮宗平賀本土寺末、増林村の法立寺と、同じく赤岩村(現松伏町)蓮福寺の僧を招いて亡妻うめの回向を頼むとともに、近所の人びとを招いて盛大な題目講を行っていた。さらに嘉兵衛は心願の筋をもって赤岩蓮福寺別当鬼子母神堂へ金一両三分二朱の真鍮三ツ具足を奉納しているが、いまのところこの三ッ具足の所在は不明である。
いずれにせよ、百数十年前の越ヶ谷宿の住人が、他の地でその事跡を残していたということは、現在の越谷市の住民にとっては有難いことである。とくに越ヶ谷宿の名を他の市町村でみかけたとき、だれもがほのぼのとした郷土のほこりと懐かしさをおぼえることであろう。