江戸時代の通貨安定策

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 現在円高ドル安の為替相場で、輸出業界は苦境に立たされているといわれる。円高により、日本円がドルに換算される時、それだけ輸出価格は割高になって採算がとれなくなるからである。だがそれ以上に、従来ドルが世界の通貨に大きな役割を果してきただけに、ドルの不安定は通貨不安を生じさせ、世界の市場を混乱させる恐れがあった。このため政府はドル相場の安定をはかるため、積極的にこれに介入せざるを得ない現状にある。

 さてこれとは性質が異なるが、江戸時代においても通貨の安定をはかるため幕府はそのつど様々な政策を講じていた。当時は米遣い経済といわれたように、米相場の動向は通貨との関連で人びとの生活に大きな影響を与えたが、米相場の極端な変動から社会不安を引起すことも珍しくなかった。このため幕府は米穀の豊・凶に応じ、米相場安定政策として、強制的な売米・買米・囲(かこい)米などを実施しその安定をはかろうとした。

 このうち凶作などによる米相場の高騰に際しては、一般庶民、ことに都市の消費者が困窮したが、一方米相場の低落で打撃を受けたのは、年貢米を金に換えて経済の基盤とした幕府や領主、旗本や御家人など武士階級の人びとであった。

 文化三年(一八〇六)十一月、当年は全国的な豊作のため、米相場は異常な低落を示し、武士の台所は危機に見舞われた。そこで幕府は米相場安定のため、農民に対し米穀の市場への出荷を制限する強制的な買上米や囲米(許可あるまで売ってはならない米)の実施を命じた。この時西方村(現越谷市相模町ほか)では、代官山田茂左衛門役所から役人が出張し、大高持四人の米穀を幕府で買上げ、さらに差加金としてそれぞれの売米高に応じ、合計金一〇〇両を国恩金として納めるよう命じた。

 国恩金を課せられた西方村高持のうち、この時の割当は、弥右衛門(大境組の秋山氏)が金四〇両、利左衛門(山谷組の秋山氏)・次郎右衛門(藤塚組の石塚氏)・孫兵衛(西方組の斉藤氏)が各二〇両であった。このほか一般の農民に対しても、高一〇〇石につき米二俵宛の囲米を命じたが、西方村ではすでに高持四人で同村内の余剰米の殆んどを幕府に売渡しているので飯米を除くと残り米はないと主張、村全体で一一〇俵の囲米を願って許された。なおこの囲米は翌文化四年四月に出荷禁止が解除されたが、西方村高持が納めた国恩金も、文化五年七月、金一〇〇両につき五両宛の割合で割戻された。

 また文化六年にも、米相場が下落して通貨が混乱したため、同年十一月、幕府は再度買上米を実施した。このとき買上米に応じて課せられた国恩金の額は、弥右衛門が八五両、次郎右衛門が三五両、孫兵衛と利左衛門が各二〇両の割であった。幕府はこうして米相場の安定をはかるため、様々な強制措置を講じたが、全体からみると、あまり効果はなかったといわれる。

 現在の我国は、江戸時代や戦時中の統制経済と異なって、自由経済を原則としているので、通貨安定のためと称しても、その強制措置の実施は抵抗が大きい。しかしそれでも国際間の経済は世界の動向に対応し、種々な面でその自由が制約される傾向にあるのが実状といえよう。

西方の斉藤家跡