江戸時代、水田稲作地帯の農民は、冬期は主に蓆やわらじ等の藁工品を生産したり、藻刈、川ざらい等用排水路の整備、或いは道路・橋梁・圦樋等の修築を共同作業で実施し、それなりに多忙であったが、旧暦一月を睦(む)月(つき)と称するなど、一年を通じてもっとも穏やかで家庭的な季節でもあった。
しかし水害等による凶作時には、農業以外に収入がなく、しかも出稼ぎ口が少なかっただけに、その冬は生計的にもっともきびしい季節になった。幕府はこうした時、夫食手当として生活資金を、また種籾手当として生産資金を貸付けたりしたが、このほか水害の復旧と農民の助成を目的に、大規模な土木普請を施行することがあった。この普請には各大名が御手伝いとして動員されるのが普通であり、これを御手伝い普請と称したが、農民側ではこれを御救い普請と称し、その日の糧食に窮した小前百姓の命をつなぐ救済事業ともなった。
寛保二年(一七四二)八月、未曾有の大豪雨で関東は大洪水に襲われ、各地は大被害を蒙った。幕府はこの復旧工事に長州藩毛利大膳大夫はじめ八大名に御手伝いを命じたが、この普請総額は金二三万両、使用人足は延数百万人ともいわれる。このうち江戸川・古利根川・庄内古川・綾瀬川の水害復旧普請を担当したのは、肥後熊本の細川越中守で、その普請金は六万九九四〇両に及んだ。この時、綾瀬川通りの堤防普請は、同年暮から翌年夏頃まで続けられたが、この間地元の困窮農民が毎日のように日雇い人足に出て、日当銭を受けたので、どうやらその日の飢えをしのぐことができたという(越巻中新田「産社祭礼帳」)。なお、越巻村(現新川町)周辺の綾瀬川通りの普請金額は金七〇両ほどであった。
こうした御救い普請は、寛保二年のほか、宝暦元年(一七五一)、明和四年(一七六七)、天明六年(一七八六)の水害時等に、仙台藩伊達陸奥守等諸大名の御手伝いによって、しばしば行われていた。このうち越巻村中新田の『産社祭礼帳』によると、天明六年の水害時には、「御普請正月六日より始まる、御普請金御内借として金拾六両弐分受取り、段々御普請出来方により金子受取り、春中の飢は相助り申候」と記されている。つまりこれらの普請事業は、災害の復旧とともに、困窮農民への救済も兼ねていたのである。
しかし幕末期になると、幕府の威信失墜と各藩の財政破綻により、弘化三年(一八四六)、嘉永二年(一八四九)、安政六年(一八五九)等の大きな水害時にも、諸大名による御手伝い普請は施行されなかった。ことに安政六年の関東大洪水に際しては、潰滅(かいめつ)的な打撃を受けた越谷地域の農民は御救い普請や幕府の救済措置が十分でないまま、なかには〝お助け貰い〟と称し、その日の食糧を求めて他村に流出する者や、また家屋敷を手離して退転する潰れ百姓が続出した。
それでも当時はすでに農間余業や商品作物の普及により、多くの農民は自活の道を切り開いていたので、大きな災害時にも村が潰滅するようなことはなかった。農民たちはすでに頼りにならない幕府を見離し、自分自身の力で生活を防衛する逞(たくま)しさを身につけていたのである。