村の娯楽

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現代はレジャーブームともいわれ、余暇を楽しむのが生活の一部に定着しつつあるようである。もっともテレビや映画をはじめ、旅行・スポーッ・パチンコなど、余暇をすごす娯楽機関には不自由しない。

 それでは江戸時代の大都会はさておき、一般農村での娯楽とはどのようなものであったろうか。当時は、村あるいは部落単位の生活共同体が構成されていた関係から、娯楽も村や部落を中心とした集団行事が一般的であった。なかには代参講や遍路などによる寺社参詣旅行、あるいは俳諧や碁などをたしなむ人もいたが、これらは余暇をもった上層農民に限られた。そして一般農民の娯楽は、念仏講・庚申講・月待講など信仰と娯楽が重なった行事、あるいは嫁講・若者講などの年齢集団による寄合が大きな比重を占めていた。

 このほか特殊なものとしては、寺院の法会や神社の祭礼などに催される角力・手踊・芝居・花火などが娯楽の中心であった。ことに芸人を招いての手踊や操人形芝居の興行も盛況であったようで、安永四年(一七七五)三月、大房村の松山で、同九年春大林村の松山でそれぞれ操人形芝居の大興行が催されたと記録されている。また江戸の角力取りを招いての勧進角力や、旅廻りの芸人による村芝居も古くから行われていたが、正徳四年(一七一四)には勧進元であった袋山村の名主が、宝暦六年(一七五六)には同じく七左衛門村の名主が、村の困窮を招くとの理由で、村内の農民から勧進角力や村芝居の中止方を支配所に訴えられている。

 江戸幕府は、村内の人寄せ興行を風俗悪習の基として原則的には禁止していたが、実際にはこうした人寄せ興行が盛んに行われていたのが実情である。前頁の図は砂原村において講談興行が行われた際に配付された木版刷の広告である。年代は不詳ながらおよそ文化年間(一八〇四~一八)の春と推定される。この広告には桜花と幔幕が画かれており、催し物は前座として南多不慮見による「和漢諸軍談」と、後座として野田楽々斎による「浮世ばなし国ものがたり」となっており、世話人は砂原村の若者中、興行主は同村名主の定右衛門で、一村を挙げての大興行であったようである。

 越谷地区は江戸に近かった関係からか、若者が中心となって行う伝統的な地芝居は定着しなかったが、所によっては若者仲間の地芝居が隆盛をきわめたところもある。その後、文政改革による厳しい人寄興行の禁止措置で、村内の娯楽は大きく制約されたが、それでも自主的な村の娯楽は春の祭り・秋の祭りなどにささやかながら維持されてきた。このほか今でも神社の境内に卵形の力石がみかけられるように、当時の人びとは、ことあるごとに集まっては力くらべを競っていたし、村角力も盛んで、今でもその伝承として神社の祭りに子供角力が行われているところもある。

 こうした江戸時代の娯楽は、幕府の度重なるぜいたく禁止令に付随して、いちじるしく制約されていたが、村の共同生活や村びとの団結を維持していくため、欠くことのできない健全な集団行事として、生活のなかに取入れられていたのである。

砂原村の講談興行広告