江戸時代の食生活

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 新年には餅をつき、ご馳走を作って祝うのが古来からのしきたりである。しかし現在は新年に限らず、その食生活が一年を通じて美食になれているため、新年のご馳走を喜ぶ人が少なくなったのは事実であろう。もっとも江戸時代においても、貨幣経済が一般化した後期になると、小作人層や高持層という貧富の格差が大きかったにしろ、農民の食生活は向上し、副食も多様な食品を取入れるようになった。たとえば砂原村(現市内荻島地区)松沢家の享和三年(一八〇三)の金銭支出簿をみると豆腐、油揚、まぐろ、干物、わかめ、さんま、干うどん、醤油、白味噌、水飴、せんべい、鰹節、どじょうなどを日常的に購入しており、農家でありながら、大根や人参そのほか野菜を金銭で購入することも珍しくなかった。

 それでは当時の農民は正月などをどのように祝ったのであろうか、袋山村(現市内大袋地区)細沼家の天保十三年(一八四二)の記録によると、例年のように冬至の日には赤飯を炊いたが、同月二十五日には正月用の餅をつき、同二十七日には越ヶ谷の市(いち)でかや三合、田作り一升、数の子二升、たら一本、そのほか橙々、ゆづり葉などを購入した。そして正月三日間は、里芋、若菜、蛤、人参を入れた雑煮を食し、一月七日の七草には里芋、なず菜、若菜、せり、人参の五品で七草粥を炊いて食した。

 また同十五日には小正月で赤粥を炊き、翌十六日には朝の内井戸替作業を終らして赤飯を食した。翌十七日は稗(ひえ)飯の炊きはじめとあるので稗も食事に用いていたのであろう。次いで二月一日にも赤飯を炊いたが、同十五日には草餅、三月節句にも草餅をついた。同十五日は〝梅若〟(梅若忌)の日でまた餅をついたが、彼岸の中日には牡丹餅、彼岸の入りと終りには団子を作った。こうして一年を通じてみると、節句など縁日ごとに餅をつき赤飯を炊(た)いたが、餅や赤飯は当時もっともぜいたくな食品であったに違いない。

 このほか農家の楽しみの一つに産社(おびしや)といって、氏神社を中心とした一部落こぞっての祭事があった。古くは初午の行事であったが、現在一月あるいは二月、それぞれ定められた日に今でも行われているところがある。はじめこの行事も、自給作物による簡素なご馳走で、たとえば越巻村(現市内出羽地区・新川町)丸之内貞享五年(一六八八)の「産社入目覚」によると、当日の献立は牛蒡、大根、とうふ、こぶ、鰹節それに肴(さかな)という簡単なものであった。これが万延二年(一八六一)の同社の「入(いり)目(め)覚」をみると、するめ、むきみ、椎茸、しらたき、ゆり玉、八つ頭、油揚、豆腐、九年母、くわい、長芋、せり、梨子(なし)など多様な献立になっている。

 また小林村(現市内増林地区・東越谷)文政五年(一八二二)の「祭礼式法」によると、当村の産社には神前に捧げられた大鯉をはじめ、本膳はのりかけ飯に大根と豆腐の汁、坪には牛蒡のごまあえ、取会には大根と人参の煮しめ、平盛にはくわい、椎茸、せり、ふ、揚豆腐、猪口には金平牛蒡にえび、大根、人参の生酢、取肴には人参、牛蒡の酢漬、むきみぬた、えびいりなど、同じく多様な献立を用意していた。

 これらは当時としては大変なご馳走であったに違いなく、人びとは正月をはじめ産社日や節句日などの縁日をどんなに楽しみに待ち望んでいたことであろう。現在と比較して興味あることであるが、現在の生活様式は最近の高度工業化政策の所産であり、それまでは食生活においても江戸時代とさほど変らない幸せを幸せとしていたのである。

袋山の細沼家長屋門