大沢町贋銀(にせがね)づくり一件

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 文政元年(一八一八)九月、会津若松出身石川屋宗助という者が妻とともに、越ヶ谷宿大沢町の茗荷屋政右衛門方をたづねてきた。妻の妹お百がかねて茗荷屋に食売奉公をしていた縁故からである。宗助は茗荷屋の世話で同町旅籠屋権右衛門方の空土蔵を借りうけて住居することになった。

 彼は、表向きは塗師渡世であったが、食売女の斡旋業も兼ねていたようである。天保四年(一八三三)三月にも越後の国から食売奉公人五人をつれてきたが、そのおり、会津の国元から弟の宗吉と錺師(かざりし)の相之助という者を呼び寄せ、宗助の自宅に同居させることにした。

 相之助は、早速錺(かざり)仕事を始め、宗吉は兄の塗師職を手伝い、近所の交際も悪くなく実直に働いていたので、別に変ったこともないようにみえていた。

 ところが翌天保五年六月、宗吉と相之助は江戸馬喰町の旅籠屋に止宿して、神田の山王祭礼を見物していたところ、同月十六日小伝馬町で町奉行榊原主計頭組の定廻り役人に突然逮捕された。続いて宗助も翌日、大沢町の自宅で町奉行所の出役山本兵太夫によって捕縛され深川嵯峨町番屋に拘引された。

 大沢町の役人は、逮捕の理由がわからないだけに茅場町の大番屋に移されて取調べをうけていた三人をふびんに思い、その身柄を宿役人に引渡してもらうよう御慈悲願の嘆願書を出したりして運動した。

 しかし追々と、ことが贋銀(にせがね)づくりの容疑であるのを知って驚いた。宗助は牢内に入れられてからひらき直り、たびたび大沢町の知人宛に書状を出して金銭の差入れを強要した。だが知人が調達したこの牢見舞金のほとんどが本人に渡らず、牢内との仲介者馬喰町旅籠屋足毛屋林蔵によってかすめとられたという。町奉行所による贋銀(にせがね)づくりの吟味は急速にすすめられ早くも同年九月に判決があった。それによると、宗助は判決の直前牢内で病死したが、その妻子は一件と関係ないことが判り、家財とともにお構いなし(無罪)、相之助、宗吉は江戸市中引廻しのうえ、はりつけの刑、贋銀(にせがね)の材料を融通していた神田の下金屋は在庫の地銀七〇〇匁余を没収のうえ、重過料、牢内の宗助と大沢町の知人との仲介をしていた馬喰町旅籠屋足毛屋林蔵は三貫文の過料ということであった。

 当時は主人殺しや贋銀(にせがね)づくりは、理由のいかんを問わず極刑にあたいする重い罪とされていた。

昭和30年代の大沢町