瓦曽根溜井松圦放流一件

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 葛西用水筋瓦曾根溜井は、江戸時代水を堰止める石堰と、それにつらなる松土手によって区切られ、その下流は余水の流路となって中川に通じていた。通常この溜井下流の余水は、石堰の上に組立てられた竹洗流しによって、定量以上の水が落とされる仕掛けであったが、満水や洪水時には、松土手に設けられた通称「松圦」と称される圦樋によって排水された。このため瓦曾根溜井は、八条領・淵江領・谷古田領・西葛西領の用水方のほか、越ヶ谷領・新方領・岩槻領の排水方がこれに加わり七か領の組合によって維持された。しかし、圦戸の開閉そのほか溜井廻りの差配は、地元の瓦曾根村で進退し、同時に溜井の見廻り役は同村の中屋五郎右衛門がこれにあたる慣例であった。

 また溜井とその下流元荒川を区切る松土手には、すでに享保年間(一七一六~三六)から河岸場が設けられ、商品荷物や年貢米輸送の津出し場になっていたが、この河岸問屋も瓦曾根村の経営によるものであったので、瓦曾根村は当時用排水の差配や、河岸場の経営など、溜井廻り諸業務の重要な役割を荷っていたわけである。このため瓦曾根村は、これら業務の取扱いをめぐり他村と紛争をおこすことが少なくなかった。

 嘉永五年(一八五二)五月、元荒川通りの出水で、瓦曾根溜井は満水し、竹洗流しが破潰される危険にあった。そこで瓦曾根村では幕府の掛り役人にこれを知らせ、その指示を求めようとしたが、出役人の宿所が不明であった。しかし急を要することとて、他村組合に断りなく松圦の圦戸を開き、三日間にわたって溜井の水を下流に放流した。

 ところがこれを知った用水方四か領は、これを不当な処理とし、奉行所吟昧を願う、という強硬な抗議を瓦曾根村に申し入れてきた。用水方の言い分は、過日の松圦開放は、越ヶ谷宿の市荷物を積載した河岸船を、江戸表に廻送するための処置であった。しかもその後、日照り続きの渇水時にあってもひそかに松圦を開放し、河岸船輸送の便宜を計っている疑いもある。これを黙認しては、用水方三万五〇〇〇石の田地相続にかかわる死活問題であると主張し、瓦曾根溜井廻り差配の規制強化を要求した。

 この一件は同年七月、蒲生村名主弥三郎、東葛西領金町村名主仁右衛門らの扱いで示談のうえ内済となった。示談の内容は、(1)勝手に松圦圦戸の開閉をさせないため、領々総代立会のうえ、幕府掛り役人によって圦戸の錠に封印をする。(2)満水・洪水など火急の際は、掛り役人の指示によって処置するが、もし役人の宿所遠路で間に合わないときは、近村立会のもとで封印を切る。(3)元荒川の水が干上がり、船の廻送が不能になった場合は、おそらく河岸付船頭らが徒党し、圦戸を破るおそれがあるが、このためにも厳重な見廻りを実施する、などであった。

 このように瓦曾根村は、用悪水差配と河岸問屋の経営、それに下流用水方と上流悪水方という相矛盾した関係業務を荷っていたのでその鍵を握る松圦の取扱いに関しては、多大な苦慮を重ねていたようである。

大正期の瓦曽根堰