江戸時代の宿役人選挙

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 江戸時代、現在の町長や村長にあたる名主あるいは道中宿場の駅長にあたる問屋など、宿・村における重要な役職は、はじめ在地の有力な農民が世襲でこれを勤めることが多かった。この世襲による役職も時代が下ると、町村に新しい有力者が出てきたりして世襲制がくずれ入札(投票)などで役職を選出することも行われるようになった。

 殊に道中筋の宿場では、貨幣経済が早くから進行していた関係で有力者の交代がはげしく、名主、問屋の役職交代はきわめて早くからの現象であった。

 はじめはこの役職の交代に利権がからみ、選挙に対しては積極的な運動も展開されていたが、幕末期になると、宿場経済の破綻から、宿役人による立替金などの自己出費が多くなり、かつ職務の煩雑、多忙をきらったりしてむしろこうした役職を逃避する傾向にあった。

 天保八年(一八三七)七月、越ヶ谷宿本町の名主問屋塩屋吉兵衛は、当宿の支配代官伊奈半左衛門役所に病身を理由として名主問屋の辞職を願って出訴した。本町組では以前から吉兵衛より役人交代の申入れをうけていたので、しばしば会合を開いて次期役人の選出をはかっていたが、ついに決定をみなかったためである。代官所では跡役担当の候補者を数名あげるよう訴願人である吉兵衛の代人万助に命じた。万助はただちに伊左衛門(富田屋)彦右衛門(穀屋)次右衛門(ぬしや)嘉兵衛(三鷹屋)の四名をあげた。代官所ではこの四人に差紙(召喚状)を発して役所によんだ。このとき四名の者は請書奥書の筆頭に耳の遠い伊左衛門を書上げて代官所役人の応待にあたらせた。このため代官所役人とのやりとりに支障を来し、一同は代官所からきびしい叱責をうけた。

 その後本町組では代官所のきつい要請もあり、急拠町内の調整をはかったうえ、同年十一月名主は期限つきで従来通り吉兵衛が留任、問屋には年寄源右衛門をあてることで急場をしのいだ。これはきわめて異例なことで、大沢町を含めた越ヶ谷宿では問屋と名主は兼帯勤であることが定められていたからである。その後名主・問屋は次左衛門が勤めることになったが、次左衛門は弘化二年(一八四五)六月、公金横領一件の訴訟出入りのあと病死した。

 この跡役をめぐり町内は再び大評定となったが、結局問屋と名主を分離して受持つことで了解がつき、同年十二月入札選挙によって名主に富田屋源兵衛、問屋に穀屋彦右衛門が選ばれた。しかし選挙によって仕方なく役人を押しつけられた両名の役職期間も長くは続かなかったのはいうまでもない。

 現在すべての役職選挙にあたって、その運動のはげしいこととくらべると、まったく今昔の感がある。

昭和初雪の越ヶ谷新町