帰ってきた欠落人

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 江戸時代農業を嫌い賭博などに興じて家に寄りつかない者もいたが、このときは他所で悪事を働いたりすると、家族の者や五人組の者までもお咎めを受けたので、勘当帳外、あるいは久離帳外といって、人別帳(戸籍帳)からこれを除外する措置を講じることがあった。この人別帳から外されると、いわゆる無宿物という今でいう浮浪者といった身分に落とされ、世の中の人びとから相手にされない日蔭者になった。

 このほか正式の手続きを経ないで他所へ行ったきり、村に帰らない、いわゆる欠落人にも一定の期間を過ぎると帳外しが適用された。

 弘化二年(一八四五)四月、七左衛門村(現七左町)の地借人安五郎の忰源太郎は、小作手伝いのかたわら紺屋形付の稼ぎで生計を立てていたが、積った借財の返済に困り、老父安五郎一人を残し、妻ならびに五歳の忰と三歳の娘をともなって夜逃げした。当時源太郎は三十四歳であった。七左衛門村役人や五人組の人びとが、心当りを所々訪ねるとともに、近村にも協力をもとめて源太郎のゆくえを追ったがついに捜しだすことができず、家出した源太郎とその家族は規定にもとづき代官役所から帳外を申し渡された。

 それからも源太郎の消息は絶えたままであったので、源太郎のことは父安五郎を除いては、誰もが忘れ去っていた。ところが十三年の年月を経過した安政五年(一八五八)の二月、源太郎が妻子ともども郷里七左衛門村に帰村したいのでよろしくその取計らい方を願いたいという便りが親類宛に届いた。すでに源太郎は四十七歳、妻が四十歳となっており、忰は十八歳、娘は十六歳に成長していた。

 便りに接した源太郎の親類は、早速村役人にこれを報告したが、村役人はまた源太郎を呼んで事情をただした。これによると源太郎家出の始末は次の通りである。当時源太郎は病身であり、他借がかさんで返済手段もつき果てたことで一途に家出を決心した。家出後は妻子を連れ、日雇い稼ぎなどで所々渡り歩きながら少しづつ借財を返済してきたが、このころ風の便りで父安五郎が病床にあることを聞き、先行き短かい老父に最後の孝養をつくす念願で帰村を願い出たという。父の病気が帰村を決心させた理由であったに違いはないが、当時無宿身分は世間から特別な眼で見られがちであり、成長した子供のため、是非とも人別帳へ加入させ、世間並の身分に帰したいと思ったに違いない。いずれにしろ源太郎らは七左衛門村役人の取計らいで支配役所に帰住願いが出され、源太郎親子が再び七左衛門村の人別帳に加えられたのはそれから間もなくのことであった。こうした例はきわめてまれなことで、欠落人の多くは生涯無宿身分のまま日陰の一生を送ったのであった。

欠落者尋帳