天保飢饉と越ヶ谷(その一)

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天保四年・五年の施米

 天保四年(一八三三)は、春から夏にかけて寒冷な気候が続いたが、同年八月暴風雨に襲われ、東北・関東をはじめ全国的な大凶作になった。このため各地の米穀商は米を囲って売惜しんだので米価は急騰した。越ヶ谷町市相場でも、同年夏頃までは金一両につき平均米八斗七、八升の相場が、八月二日には平均五斗代に暴騰さらに値上がりの気配にあった。

 この米価の値上がりや売惜しみでその日の生活に困った人びとは、江戸・大阪・青森・広島など各地で暴動を起し、米の買占めをしている米穀商や富豪の家を打こわした。日光街道幸手宿でも同年九月二十八日の夜、暴動が起こり、幸手や上高野の富豪三十一軒が打こわしの被害をうけた。

 こうした情勢に対し幕府は、米価の高値で諸人が難儀しているので、手持ちの米穀はすべて供出せよ、また窮民救助のためつとめて施米や施金を実施せよとの通達を廻した。この通達に接した越ヶ谷町では、直ちに困窮者の救済にあたったが、このうち本町組では、重立ち百姓六軒が一軒あたり金五両二分と銭三九二文を出し合って金三二両と銭三貫九七一文を集め、米四三俵九升を購入した。この米を困窮者一軒あたり玄米一斗七升宛に施米したが、施米軒数は本町組地借、店借・一二八軒のうち一〇一軒に及んだ。このほか地主百姓よりその店子や出入りの諸職人に対し、その困窮の度合いに応じて金や米が施行されたので、一応危機を切り抜けることができた。

 しかし翌天保五年六月、人びとが望みをかけた麦が不作となり、穀類は端境期に向かっていよいよ高騰した。越ヶ谷市相場もこの月には一両につき米三斗四、五升、搗麦でも四斗という前例のない高値を示した。このため越ヶ谷町の因窮者はその日の生活にも窮し不穏な動揺をみせはじめた。そして六月十二日本町組の裏町内袋町の地借・店借の困窮者は本町の裏店に触を廻して鎮守の山に集合した。この集会は秋のとり入れまでの期間一軒あたり米一俵宛の借用を申し入れることにあった。

 この申し入れに対し本町組年寄源右衛門外一名は鎮守の山に駆け付け交渉に当った。この結果本町組の困窮者九九軒に一軒当り玄米一斗五升、別に裏店それぞれの地主が玄米五升を負担し、合計二斗の施米を実施することで諒解がついた。

 次いで翌十三日、中町組の困窮者が本町組にならって秋の収穫時まで同じく一軒あたり米一俵宛の借用を申し入れた。ところが中町の百姓はこの交渉に難色を示し、交渉は決裂した。中町組の困窮者はこの百姓側の強硬な姿勢に反発し、円蔵院(越ヶ谷袋町)門前の地借・店借層の応援を得て、寺の建物を損傷させるなど、打こわし騒動に発展させる気配をみせた。

 これに驚いた中町組百姓伊丹屋又兵衛と、中町の地借人二、三人が調停に立入り、双方の主張を聴取して調整した結果、一軒あたり、玄米二斗と銀二〇匁を施行することで妥結した。新町組もこれにならって施米を実施したので越ヶ谷三町は平穏に戻った。

 幸いこの年と翌六年の米作は平年作となり、米価も下落したので人びとは落着きを取戻すことができた。こうして越ヶ谷町では天保六年九月十日の久伊豆社祭礼には神輿の渡御をあおぎ、山車を出したり子供太夫の手踊り興行などを催して終日賑わいをみせたという。

袋町円蔵院跡