天保七年の大凶作と施米
天保七年(一八三六)は、同四年に増さる全国的な大凶作になった。とくに奥州地方の飢饉は深刻で餓死者は一〇万人に及んだという。越ヶ谷市米相場も、米穀払底のため、金一両につき白米七斗七、八升までに回復していた米価は、同年七月七日には早くも四斗八升と急騰し、七月二十二日には三斗四升と跳ね上った。
このため越ヶ谷町では同月二十六日から再び困窮者への施米を実施した。このとき本町組で施米を受けた家は九八軒であり、一軒あたり一斗一升、ただし独身者は六升宛の配給であった。次いで同年八月四日から二〇日の間、本町組困窮者一一〇軒に、毎月一軒あたり米五合四勺の施米が続けられた。
こうしたとき幕府は村々取締りのため関東取締出役を廻村させ、米や金を押し借り同様にねだり取る者は厳重に処分するので、このような者がいた際は容赦なく取押さえ、その筋へ早々訴えでるよう申し渡し、地借・店借残らず承知の旨の請書を徴した。越ヶ谷町ではこの申し渡しにより困窮者の救済を中止したが、その代り稲の盗難防止として耕地五か所に稲番小屋を設け、家別二名宛の交代で徹夜の見張番を立てた。
こうして年内は緊張のうちに推移したが、翌天保八年に入ると事態はいよいよ悪化、一月二十七日の越ヶ谷市相場は一両につき二斗七升五合という空前の高値をつけ、雑穀類も軒並み高騰した。さらに二月に入ると、窮民救済のため叛乱をおこした大阪天満与力大塩平八郎の乱が伝えられ、人心は動揺した。当地域においても「誠に心細き時節、去暮より世間そうぞうしく、在方大家へ押込み、押借り又は盗人大はやり、夜中喧ましく寝られず」と越ヶ谷本町三鷹屋嘉兵衛が述べている通り、村々の治安は極度に悪化した。
これに対し幕府は困民どもが徒党を結ぶ企てなどをしているようだが、説諭しても応じなければ場合により切捨てたり鉄砲で打払ってもよい、という強硬な触書を廻してその取締りを強化した。しかし越ヶ谷町では、地借・店借の困窮者と対決することを避け、同年二月二十一日幕府の許可をうけて困窮者の救済を再開した。このとき本町組では九一軒三一〇人の極貧者に大人小供とも一人あたり銭四〇〇文、独身者五〇〇文宛の施金を行った。次いで三月十五日から向こう六〇日の間三一八人の極貧者に大人子供の別なく一〇日目ごとに一人あたり白米一升を施米した。このとき越ヶ谷町では瓦曾根村の照蓮院内に設けられた「捨子養育所」にも施米を行っているので、捨て子も多かったに違いない。
また町の救済とは別に、このときも地主方からその店子や出入りの職人に対し、情実的な施金が行われた。一例を越ヶ谷本町三鷹屋の場合でみると、同年四月十七日「出入諸職人施行」として、金一分大工清五郎、金二分鳶喜兵衛、銭一貫文髪結金蔵、同飴屋はる、同袋町弥市など二一名に施金を行なっている。
かくて米価高騰のピークは三月十七日で、金一両につき玄米が一斗九升五合、搗麦で二斗四、五升、白米小売銭一〇〇文につき二合八勺という空前の相場を示した、その後次第に米価回復のきざしをみせ、同年十一月には五斗三升にまで値下がりした。こうして天保の大飢饉と称された危機を越ヶ谷町では無事に切り抜けることができた。その後一時落着きを取戻したが、安政六年(一八五九)の凶作以降維新期にかけて米価は高騰、越ヶ谷町では毎年休みなく困窮者の救済が続けられた。