安政二年の関東大地震

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 安政二年(一八五五)に起きた地震は、慶安二年(一六四九)七月二十五日・元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日の地震とともに、記録に残る関東の大地震で、江戸をはじめ諸国に大きな被害を与えた。この安政二年の地震は、十月二日(陽暦換算十一月十一日)の夜十時頃からにわかに大地がゆれはじめ、夜明けまでに余震を含め三十余回の烈しい震動が続いたという。震源地は現在の江東区東亀戸から千葉県市川にかけて四里四方の間といわれ、江戸市中だけで地震による倒壊家屋や火災のため、死者四〇〇〇人、家屋一万五〇〇〇戸の被害を受けていた。

 この他武蔵・相模・下総・常陸諸国の被害も大きかったようである。安政二年十月の『手賀沼北辺紀行』によると、この地震で利根川通り布佐や布川の家々は大分損ねられたとある。また「この年は、各地に彼岸桜や梨などの花の狂い咲きが多かったし、栗や柿の実も例年になく早く熟したが、ことに九月晦日の日にはおびただしい数の烏や鳶が空中にさわぎまわって飛びたっていった。今考えると、これらは地震の前ぶれであったかも知れない。常陸国の竜ヶ崎や羽中などの村々でも、ヤマカガシなどの蛇が穴からはい出し、寒さのため群をなしてうろうろしていたのは九月の晦日のことであり、布川も井戸の中から、藪鳴りが聞えたのは十月二日の昼であったと聞いている」というような地震前の異変を記している。

 それでは越谷地域の状況はどうであったろうか。越ヶ谷本町内藤家の『記録』によると、十月二日夜十時「近来稀成大地震」とあり、この時内藤家の土蔵にも二、三か所ひびが入り、平壁はいずれも二尺程崩れ落ちたが、物置きのひさしなども忽ちこわれ落ちたという。しかし、災難はお互いであったので、だれ一人として駆けつけ、家屋の倒壊防止の作業を手伝う者はいなかった。それどころかそれぞれの身を守るため、道路や広場に仮小屋を設け、家族などを避難させるのに手一杯であったという。

 さらに翌三日から十日にかけては、昼夜六、七度の余震が続いたため、夜になると道路に飛び出す人や、仮小屋で休む人などもあった。内藤家でも十一日までは帯もとかず、店内で仮寝をしたが、替る替る夜番をたて、少しのゆれでも一同おもてにかけ出し、いうにいわれぬ大難儀であったという。この時は越谷地域には火災も起こらずその被害も少なくて済んだようである。

 ところで九月一日は、大正十二年の関東大震災の記念日にあたる。この震災では、東京を中心に家屋全焼四四万余戸、全壊一二万余戸、死者九万余人行方不明一万余人を数えるという大惨事を記録している。

 越谷地域でもその被害戸数は一六六六戸、うち全壊八七一戸、半壊四六二戸、被害人数は八五人うち即死一九名、負傷者六六名に及んだ。なかでも被害の大きかったのは出羽・大相模・蒲生などの各地区であった。

 現在、いつ起こるとも知れない地震などに対し、その防災対策が真剣に進められているが各人の心構えがその被害を最小限にくい止める重要な要素となろう。

大正12年関東大震災の惨状(粕壁町)