増森の晒業

158~160 / 212ページ

原本の該当ページを見る

 江戸時代も後半になると越谷地域にも木綿の栽培が広く行われるようになった。これら綿作にともない、作付・糸とり・布織の三工程は、農家で一貫して行われることもあったが晒加工や紺屋などは専門の職人によって行われた。このうち晒加工は白木綿を一か月から二か月の間、水に晒すものである。ことに関東で晒の本場は野州真岡で真岡木綿とも呼ばれ、全国的にも著名であったが、かつて増森でもほとんどの家が農間晒業を営んでいたといわれ当地域では、もっとも晒業のさかんな所であった。この増森晒業の隆盛は、増森の地がもと古利根川の曲流地点に位置し、木綿布の晒場に適していたうえ、その水質のよさと技法のよさで製品の優位性を保つことができたためであるといわれる。

 このうち増森村の小島家「家内記録帳」によると、増森村小島家が、農間晒業をはじめたのは天保十一年(一八四〇)のことであったという。

 当時、増森の晒業は、すでに活発な動きをみせ、原料を集荷してこれを晒し、さらにその完成品を江戸に出荷するなどその流通はさかんであったようである。こうして小島家でも、もっぱら晒の委託加工を行い、農家経済の転換をはかった。おそらく小島家では、この晒業による現金収入の目途がついた安堵からか、天保十二年六月、西国へ旅行し、伊勢、熊野、四国の神社仏閣を八十日間にわたって参詣して廻った。農業一筋に自給的な生活をおくっていた零細農家も広汎な農間余業の展開で、その生活様式が大きく変ったのである。

 こうした村びとの生活を変えた貨幣流通の実態を、たとえば小島家安政四年(一八五七)の晒業による現金収支の記録でみると、次の通りである。すなわちこの年の晒加工代金は金七十七両二分三朱と銭三十五文であり、諸経費を差し引いた純益は、金十八両一朱と銭一貫百二十九文であった。

 その後、その年によって収支純益は異なり、赤字を記録した年もあったが、明治二年(一八六九)には晒加工代金は金百四十三両二朱と銭十九貫五百文にものぼり、諸経費を差し引いて金十両の収益をあげていた。その後大正十年、埼玉東部十三河川改修工事の一環として増森を曲流した古利根川が葛飾郡吉川町川藤を分断した直道に模様替えとなり、増森の晒業はその職場を失うにいたった。それでも増森の人々は堀井戸の水によって晒加工を営み最近までこれを存続させていたが今ではすべて廃業した。しかし、この増森の晒業も歴史の流れのなかに位置した生活史の一コマであったことに変りはない。

大沢香取神社奥殿の彫絵