水戸天狗党の乱

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 元治元年(一八六四)三月、水戸藩士藤田小四郎、水戸町奉行田丸稲之衛門ら尊王攘夷の過激派は、水戸藩の穏健派と対立、脱藩して筑波山に挙兵した。

 筑波勢はここで同志を集めたうえ日光東照宮に軍を進めたが、さらに本陣を下野国大平山に移して気勢を挙げた。この頃は同勢千人を超える大集団になっていた。この集団のうち一部の者が、軍資金獲得のため宇都宮、桐生など各地の豪商を襲い、一般民衆にまで掠奪行為が及んだことからこの集団を人々は天狗党と名付けて恐れたのである。

 幕府は天狗党追討のため、小川町歩兵組八百人、旗本千人余を動員したが、さらに六月九日には若年寄田沼玄蕃頭を総督に任じ、武蔵・常陸・下総の諸大名十一藩に動員令を発して天狗党征伐に乗り出した。

 これら討伐軍は七月の上旬、下妻や高道祖などで天狗党と交戦したが利あらず、七月十六日その主力軍は日光道中越ヶ谷宿まで引きかえした。

 越ヶ谷本町内藤家の「記録」によると、この征討軍の大軍を旅籠屋だけに収容できなかったので、一般民家にも分宿させた。内藤家でも歩兵組三番小隊頭取永見権七郎ほか十三名の兵土を十日間宿泊させており、このときの泊り銭は一汁一菜で一人に付銭二〇〇文、昼食は銭二〇〇文、小夜食代は四十八文であったとある。また大沢町鈴木家文書によると「元治元甲子六月頃より野州常州水戸追討につき同七月十五日より御武家様方あまた凡そ千人御泊りになり同二十五日より同晦日頃まで追々出立に成り此時の旅籠代一夜代二百文中食代百文づつ夜小夜食四十八文づつ」と記されている。

 やがて征討軍は同月下旬から追々越ヶ谷宿を出発したが、総督田沼玄蕃頭が越ヶ谷久伊豆社に戦勝祈願を行ったと伝えられるのもこの時のことであったろう。

 また平方林西寺「白竜山日記録」によると、水戸浪士が杉戸宿に陣を張っているので前進できず、征討軍四~五千人がこの日粕壁宿に夜営した。このため宿泊用の蚊帳や風呂桶、蒲団類が平方村からも多量に徴発されたと記されている。

 その後、処々で転戦した天狗党は同勢八百人水戸を脱出して京都に向かったが、飢えと寒さのため、戦う気力もつきはて加賀藩に降伏した。こうして降伏軍は翌慶応元年二月、幕府の命によりことごとく斬首や追放の刑に処せられた。

 なお西新井新井家の「記録」によると、天狗党のうち那珂湊で降伏した水戸藩元大番組郡奉行下野成次郎以下郷士を含めた三十名が岩槻藩にお預けの身になっていたが、加賀藩降伏軍の処刑に前後し幕府目付役立会のもとに主だった者二名が打首となり、十八名の者が遠島に処せられている。

 血で血を洗う幕末期の凄惨な動乱は、一般民衆の大きなかかわりのもとに展開されたが、人びとは不安と期待のもとに、この動向を見守っていたのであった。

越巻中新田産社祭礼帳