幕府は列国による内政干渉や尊王攘夷の昂揚など緊迫した政治状勢の危機に対処し、幕府兵力の充実をはかるため、文久二年(一八六二)に兵制の改革を断行し、幕府軍を近代的な軍隊に組みかえようとした。このとき一般の農民からも強壮な若者を徴用し、幕府の歩兵組に編成しようとはかった。この農民から徴用した兵士を、兵歩あるいは兵賦と称した。
兵歩は代官支配所単位に高一〇〇〇石につき兵歩人足一人あたりの割合で徴発されたので、代官支配所ごとに最寄町村が組合をつくって兵歩を選出した。越谷地域においても、越ヶ谷町をはじめ周辺二町一三か村、高四〇〇〇余石の地域町村が組合を組織し、慶応元年(一八六五)四人の兵歩を選んで幕府の兵歩屯所におくりこんだ。この兵歩の給金は一人あたり一か年三〇両であったが、この給金は村々の高割合によって組合が負担した。兵歩は制服や銃その他脇差などが支給され、屯所と呼ばれた江戸の訓練所に収容されたが、ここでは一組五人に編成され、きびしい洋式教練をうけた。ことに兵歩が宿舎で生活するうえでは内務規則や外出の門限規則などが設けられていたが、この規定に違反したときは容赦なく罰が加えられた。とくに脱走の罪は重く、一定の期間を経ても帰営しないときは、人別帳(戸籍薄)からはずされ、郷里の関係者がお咎めにあうこともあった。
慶応元年十二月、八条領兵歩組合から兵歩に徴用された蒲生村の伊之助が、兵歩屯所から逃亡して帰営しなかった。このため代官役所のきびしい取調べをうけ蒲生村の役人は過料の罰、親・兄弟・五人組の者までお叱りの罰をうけ、伊之助は人別帳からはずされた。
その後、各所を逃げまわっていた伊之助は、慶応四年四月、蒲生村の隣村青柳村で逮捕された。
しかし、幕府はすでに崩壊した後であったので、間もなく釈放されたが、伊之助は村役人などに迷惑をかけていたこともあって蒲生村に戻ることもできず、同年六月、実家から金五両の金子を与えられて、何処ともなく去っていった。
なお、兵歩屯所は、慶応四年一月の鳥羽・伏見の戦後解散されたが、同年二月郷里に帰る途中の兵歩の一団が越ヶ谷町で乱暴を働いている。このとき被害をうけた者には、金三七両を強奪された越ヶ谷本町奈良屋新八後家しも、金二〇両と晒木綿一〇反を奪われた中町の伊勢屋太兵衛をはじめ数多くの被害者がいる。またこのとき越ヶ谷町に置き捨てられていった兵歩の持物には、鉄砲・脇差・背負文庫・大刀・提灯などがあった。
明治維新期における混乱した世相の一こまである。