慶応四年(明治元年)四月二日増林村百姓弥助方で「夜四ツ半時(午後十一時)頃、南の方雨戸押破り、面体存ぜざる男三人押入り、内二人抜身を携え、手拭にて鉢巻致し、一人身支度失念、有合わせの金銭差し出すべく、声立て候はゝ、切殺すべく申しおどし」て押入った賊が、弥助方から金三分三朱と銭二貫五百文を強奪していった。
次いで五月二十六日夜には、同村百姓与市方で「表潜戸押破り、面体存ぜざる男七、八人押入り、内二人後鉢巻襷掛けにて、二人は頭巾様のもの冠り、外三、四人の義は身支度失念、家内一同共麻縄にて髪の毛へ引通し置、申し聞せ候は、官軍御用先入用差支えにつき、有合の金銭差出すべく旨」とて、官軍の名をかたった強盗の一団が、与市方から金五十両と銭七十貫文、それに脇差二本を強奪していった。
このような集団による押込強盗は、慶応四年四月から翌明治二年一月にかけて、増林村だけで六件も発生しており、なかには強盗の一団に切り殺された者もいた。
この慶応四年の四月から翌明治二年一月までの政治情政は、江戸城に入った東征総督府による軍政から江戸鎮将府の民政に切りかえられる、いわゆる明治維新の動乱期に相当する。鎮将府は、民政裁判所、南北市政裁判所、社寺裁判所を設け治安その他行政を管掌させたが、この三裁判所は旧幕府の民政機構をそのまま受け継いだものであり、地方の民政官も旧幕府の官吏にゆだねられていた。しかも警察的機能をもって活躍してきた関東取締出役が廃止されたこともあり、村々の治安取締りは無警察状態であったのである。
このような混乱期にあって、強盗など被害の続出していた村々は自警団を組織して自己防衛をはかるほかなかったが、道案内人(岡っ引)など治安取締りの専従者を任命してこれにあたらせるなど、江戸時代からの寄場組合を母胎に自治的な警備体制を強化したところもある。たとえば八条領寄場組合では、領中三五か村を六小隊に編成し、各小隊ごとに二十名の取締り専従者を置き警備にあたらせる。騒動の発生があれば十五歳以上六十歳までの者はすべて用意の竹鎗や鳶口をもって出動する。このうち劔術や銃の修業のある者を選んで取締り世話役人に任命するなどとなっていた。
この八条領寄場組合による自警組織が、はたして実行に移されたかどうかは不明ながら、動乱期の世情に対処して、自からの村は自からが守るという自治意識の昂揚を招いたのは確かであったろう。しかし間もなく体制を整えた維新政府は、村々の自治活動の場となった寄場組合を解散させ、代りに大小区制を布くなど、たくみに民心の自治昂揚を維新政府の上からの新政策に吸収してしまった。