行倒人(いきだおれにん)(その一)

171~173 / 212ページ

原本の該当ページを見る

解雇された紡績女工

 労働者の権利がある程度保障され、同時に福祉行政が進められている現在は、行倒人などという不幸な事態に遭う人はきわめて少なくなったようである。ところが「殖産興業」「富国強兵」のスローガンのもとに、農民や庶民の犠牲によって産業の振興がはかられた明治期には、会社の一方的な解雇などで帰郷の途中、行き倒れになる人びとは珍しくなかった。ことに「女工哀史」に象徴されるごとく、紡績企業にかりだされた女子は、過労や栄養失調などで病気にかかり働けなくなると、生命や金銭の保証もなくそのまま企業から締め出される例が多かった。

 明治三十二年九月七日、桜井村大字上間久里の陸羽街道(日光街道)で、女子の行倒人が発見された。桜井村役場では女子の身柄を村内の医師に託して事情を聞いたところ、この女子は宮城県桃生郡前谷地村和淵の或る農家の長女で当年十九歳、同年二月十日静岡県の富士紡績に雇われ出稼中、重い脚気症にかかって解雇され郷里に帰る途中であった。おそらく女子は旅費もなく、陸羽街道を徒歩で郷里に向かっていたのであろう。

 身柄を預かった桜井村役場では、早速本籍地に女子の引取りを迫るとともに、医療費や看病人手当の弁償を請求したが、折返し女子の実家から、「女子をお救い下さった費用の幾らかでもお返ししたいと存じますが、私事はめくら同様で妻は病身、今日の暮らしにも差支えております。そのうえ昨年も今年も水害で稲は凶作、何とも仕方ないので娘を富士紡績へ金二円の前借で働かせに差出した始末、今のところ費用の調達もできない状態ですので、当分御勘弁のほどを願い上げます」との書状が届いた。役場でもこのままでは困るので、再三女子の引取りを迫ったが、親元からは窮状を訴える書状の繰返しであった。

 こうしている間に女子の病状は回復したので、役場では女子を巡査派出所の掃除手伝いなどで働かせていたが、役場で支弁した救護金の処置に困り、翌三十三年二月、村費繰換金五四円三八銭の督促令状を郷里に送った。参考までにその主な内訳を示すと、医師治療代八回分金二円、薬代三円六八銭、食費代一六三日分一日一五銭の割で計二四円四五銭、寝具料一日当り三銭で計四円八九銭、看護料一六円三〇銭、冬衣一枚八〇銭その他などとなっていた。これに対し親元ではこの請求に応じられなかったので、桜井村役場は所定の手続きをとり、前谷地村役場に滞納処分の執行を付託した。

 ところが前谷地村役場で調査の結果親元の住居は借家で屋敷地を持たないばかりか、田畑・山林・原野・船舶そのほか一切の動産・不動産を所有せず、しかも本人家宅の所持品も生活上欠くことのできない器具ばかりで、差押える財産の何ものもない旨の調書が桜井村役場に届けられた。

日光街道上間久里周辺