行倒人(いきだおれにん)(その二)

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行倒人の失踪

 このため桜井村役場では、内務省令第二三号第八条の規定にもとづき、宮城県庁にこの旨を報告し、県庁による救護費弁済の請求手続きをとった。しかし、女子をこのまま桜井村に留めておくわけにいかず、同年五月四日、役場吏員付添で武里停車場から東武鉄道に乗車させ、久喜町で一泊、翌五日東北本線久喜駅から、宮城県小牛田停車場に至る二円四七銭の乗車券と、小牛田停車場から自宅までの旅費四〇銭を与え、とくと注意を加えたうえ、一人で帰郷させた。

 翌六日無事帰宅できた女子から墨書による懇切な速達礼状が役場に届けられ、父親からもいつか費用を弁済する旨の涙ながらの書状が送られてきた。それは人の情にむせぶ親子の心中を察するに余りある筆跡であった。

 一方、規定によって女子の救護金支払いの義務を負った宮城県庁では、請求書の内訳を吟味の結果、本人の帰郷旅費、ならびに本人に与えた草履や手拭の代金そのほかは、桜井村の厚意的取計らいで、この支弁には応じられない。その他看護料などの請求も納得できないとして、請求代金の訂正を求めていたが、結局同年九月十九日、三十二年九月七日から三十三年五月四日までの女子に対する救護金の更正額六七円五八銭が桜井村役場に届けられた。

 その後女子の消息は不明であるが小作人の子であっただけに、生涯きびしい人生を余儀なくされたかも知れない。

 このほか同時期の行倒人には、たとえば明治三十二年八月十二日、桜井村大里の陸羽街道で、出稼ぎからの帰郷中、同じく脚気症のため無一文で行き倒れとなった長野県下高井郡瑞穂村の農民、当時三二歳などがみられる。この農民も同じく桜井村役場の取計らいで救護されたが、郷里の親戚その他扶養義務者は、いずれも自活できないほどの貧困であったため、再三の説得にもかかわらず、当人の引取りには応じられない旨の回答があった。

 しかも内務省令では、公共施設への収容条件は、扶養義務者あるいは引取人のいない場合に限ると規定されていたため、当人の落着く宿所は、当時何処にも存在しなかったわけである。その後当人の病状は快方に向かったが、「しつ毒」症のため歩行は依然困難な状態にあった。ところが翌三十三年一月八日、当人は看護人に無断で病室をぬけだし、そのまま失踪してしまった。おそらく、役場の厚意にいつまですがっているのは、役場にとっても迷惑であるのを知り、心苦しさのあまりの失踪であったろう。役場では驚いて、八方心当りを捜索したが、ついに発見することができなかった。その後の消息も不明ながら、厳寒のさなか、宿所のあてもなく、しかも歩行困難な病人にとっての運命は容易に想像できる。なお、桜井村役場立替えによる当人の救護費四六円八九銭は、それから半年後の六月三日に長野県庁から届けられた。

 当時人びとの基本的人権や生活権は、このように軽く扱かわれていたが、現在でも底辺にあって、きびしい環境に生きながらえている人びとがいないとは限らないであろう。

桜井村役場旧庁舎