旧暦と梅花

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 旧暦では三月を弥生(やよい)と称して、春の盛りの季節をあらわした。新暦(太陽暦)ではおよそ一か月遅れの四月にあたる。元来、旧暦では季節に合わせ、生活に密着したさまざまな行事を設定したが、とくに季節の盛りには重要な行事が設けられていた。これを五節句という一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日がこれにあたる。

 数では寄数を陽、偶数を陰とした教義にもとづき、節句の日には、陽数の重なった日なので重陽の節句とも称された。もっとも昔でも太陽暦に合わせた暦法を用いなかったわけではない。およそ新暦二月四日を立春の日とし、この日から数えて八十八夜(五月一日か二日)は新茶を摘みはじめる日とか、立春から数えて二百十日(九月一日か二日)、あるいは二百二十日は台風の襲来する日とするなど、立春を基準にした新暦に近い月日の数え方も用いられていたのである。

 こうして古くから用いられてきた旧暦は、明治五年、明治政府による太陽暦採用の告によって公式には姿を消したが、一般庶民の間では、なおも旧暦を用い、あるいは一か月遅れにこれをあてて旧暦に合わせた行事を行うのがきわめて普通のことであった。このため政府はしばしば新暦採用の徹底を通達したが、ことに農村地域では一向に改められなかった。農作業や季節的行事は旧暦に合わせたものであり、永い間の慣行となっていたからである。

 昭和三十一年六月、越谷町役場は町政の世論調査を実施したが、このなかで、正月などを月遅れの二月などで行っていたが、これら行事は新暦に改められたので、たいそう不便になったと訴える町民も少なくなかった。つまり昭和三十年代でも、まだ月遅れの暦法を用いていたのが一般的であったのである。もっとも越谷地域では、お盆などの行事は今でも月遅れで行われている。新暦と旧暦の大きな矛盾ともいえよう。

 ところで新暦三月は、旧暦では如月(きさらぎ)、あるいは衣更着と記したが旧暦の二月にあたる。暖かい日もあるが、また寒さがぶりかえし、更に衣を重着したりすることから、きさらぎと名付けられたとする説もある。この月の代表的な花は、なんといっても梅であろう。後世学問の神様と崇められた菅原道真が、清楚で謙虚な美しさを具えたものとして、もっとも愛した花である。現在水戸偕楽園や比企郡越生の梅が著名であるが、明治から大正期にかけては、大房(現北越谷)浄光寺や、西方(現相模町)大聖寺の古梅園が越谷名物の一つに数えられていた。

 このうち大聖寺境内の古梅園については、明治三十五年以来、幾多の古梅が移植されたが、なかでも十善梅と名付けられた老梅は七百余年を経たもので、幹廻り一丈三尺(約四メートル)、四恩梅は樹齢五百余年で幹廻り一丈、このほか心月・千代・神光・飛龍などの名木が、花の季節には馥郁(ふくいく)たる香気を放ち、東京からの観光客が後を絶たなかったという。

 この盛況の一端を大正三年三月六日の新聞記事によってみると、梅の花が咲き揃ったとの便りで、「去る五日講員三百六十余人、同日午前十時卅分、浅草駅発特別列車に塔じ(中略)其順序は先頭楽隊にて次いでは浅草芸妓十四名自動車にて乗り込みたるより、沿道之れが盛況を見んと人を以て埋められたり、(中略)当日雲集せし善男善女は約六、七千にして、頗る賑ひたり」とある。つまり梅の見頃は新暦三月の初旬であったのは今も変わりはない。

明治7年の大聖寺境内