大正期の小作争議と農地の解放

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 戦前の越谷地域における自作・小作の比率は、自作およそ九%に対し、自作兼小作が二四%、小作が六七%で、実際の耕作者のほとんどは小作農によって占められていた。

 大正九年、歌州大戦後の不況にあたり、農作物の価格は暴落、しかも翌十年は天候不順による不作が重なったため、農民の生活は一だんと窮迫した。

 ことに、一反歩あたり平均米一石の小作料を負担する、小作農の生活不安は高まった。このため、北埼玉郡を中心に、小作料の減免を要求する小作争議が各地で頻発したが、越谷地域でも桜井村、大相模村、越ヶ谷町等で紛争が続いた。

 なかでも増林村花田、川柳村柿ノ木の小作農は一同結束し、強硬に地主との折衝を重ねた。だが、地主側は有利な地主制のもとで、小作農の要求を入れようとしなかったので、なかには耕作を放棄してこれに対抗しようとしたところもあった。

 こうした小作・地主の対立状況のもとで、増林村の地主関根宗輔は、大正十一年、四〇町歩余の所有田畑のうち一三町歩余を自ら進んで小作農に解放した

 こうした農地解放の処置は当時危険思想の影響によるものもあるとして警察による調査の対象にもなっていた、このときも秘(ひそ)かに関根氏の調査を進めたが、この内偵書によると、関根宗輔は「居村附近二於ケル名望家ニシテ数十万ノ資産ヲ有スルモノナルガ(中略)目下所謂新旧思想ノ衝突ノ結果モ其ノ一因ヲナシ居ルヤモ難計ランモ、結局同人ハ通常現今二於ケル社会生活問題ヲ大観シ、近時労働問題又ハ小作争議等ノ各所二頻発スルハ、畢竟土地所有者ノ平均ヲ得サルニ起因スルモノナルコトヲ憂慮シ居タリシガ、今回土地拾参町余ヲ同村内二於ケル小作及小作兼自作階級二於ケル希望者二譲渡分譲」したと述べている。

 しかもこの譲渡価格は、時価の三割も低い田平均七〇〇円、畑平均五〇〇円、この代金は秋の収穫を待ってこれを徴収するとしているが、三か年賦としたものもあるといっている。

 さらにこの土地譲渡の動機としては「此ノ挙二出タルハ、同氏ノ熟慮シタル結果ナランモ、又一面ニハ実弟二名(一名ハ東京、一名ハ岩槻在)アリ此等ノ人々ガ来訪ノ都度現下ノ農村社会問題タル小作問題二関シ、地主ノ執ルベキ対策ヲ種々注入シタルモ其ノ一因ヲ為シタルナラン」と述べ、これに対する世評としては、「本村ノ小作人ハ勿論、自作人モ同氏ガ今回ノ挙二出デラレタルハ、自覚セル地主ナリト称シ非常二喜ビ居レリト云フ」と、これを埼玉県警察部長に報告している。

 当時強固な地主制度のなかで、自ら進んで土地を解放することは、きわめて珍しいことであったし、また勇気のいることであった。

 おそらくこの頃盛んであった、有島武郎、武者小路実篤ら進歩的な文学者に代表される人道主義思想の影響が、越谷地域にも及んでいたのかも知れない。

増林中組古利根河畔