ラジオ放送と越谷

182~184 / 212ページ

原本の該当ページを見る

 我が国のテレビ放送が開始されたのは、昭和二十八年二月一日のことであった。

 当時、テレビの受像機を備えた家庭はきわめて珍しく、昭和二十九年現在、越谷地域のテレビ受像戸数は、越ヶ谷町の九戸を筆頭に二一戸に過ぎなかった。それでは、すでにテレビの陰にかくれてしまったラジオであるが、その発信当時のラジオに対する人びとの関心はどうであったろうか。

 ラジオ放送は、大正十四年(一九二五)三月、東京放送局芝浦仮放送所から電波が発せられたのが最初である。これに対し越ヶ谷町有志は、いち早く米国ウェスターン社製四球式の受信機を金四四〇円で、それに金四六円の蓄電池と軽電池各二組を日本電機株式会社から購入、越ヶ谷町停車場通りの幼稚園内に架設した。

 この目的は、「文化の恵沢も、経費の点やあるいは取付不案内、操縦の懸念等よりして、個人ではなかなか設備することが困難であります。そこで次の如き方法で、最も完備せる器械によりまして、心地よき会場でラジオを聞くと云う仕組にいたしました。」という趣旨により、ラジオ放送を会員制によって一般に公開することにあった。

 この会は、「ラジオ同好会」と名づけられ、会員の種類には、毎月金二円を納め、毎日の米市況や株式市況を聴取する第一種会員、毎月金一円五〇銭を納め、毎夜講演や音楽、その他の放送を聴取する第二種会員、一夜金一〇銭の会費を納め、その夜の放送を聴取する第三種会員とに分けられていた。

 さらに、ラジオ聴取の会場では、「静粛ヲ旨トスルコト。喫咽セザルコト。七歳未満ノ児童二対シテハ入場ヲ謝絶スルコトアリ。泥酔者病人等ニハ入場ヲ謝絶ス」などの規制が設けられていた。

 当時のラジオ放送番組は、午前九時の天気予報にはじまり、次のごとき番組であった。

〈午前〉

 九・○○ 天気予報

 九・二〇 米市況

 九・三〇 株式市況

一〇・〇五 米市況

一〇・三〇 株式市況

一一・三〇 新聞報

一一・四五 株式市況

一一・五五 米市況

〈午後〉

 一・三〇 新聞報

 一・四五 米市況

 一・五〇 株式市況

 二・三〇 米市況

 二・三五 株式市況

 三・二〇 米市況

 三・二五 株式市況

 七・○○ 新聞報

 七・一五 家庭報

 七・二〇 講演

 八・○○ 音楽

 八・五五 天気予報

当初ラジオ同好会では、入場者を三七〇名、この収入金を九五円と見込んだが、これに対し支出経費は、役員手当、会場小使給、電燈料その他で計六七円、差引二八円の収益を予想した。そして将来この収益金を町の有益事業に寄付する計画を立てていたが、予想通りの収益であったかは不明である。

 ともかくラジオ聴取では、越ヶ谷は全国でも早い方であったろう。因みに大正十五年二月、荻島小学校内にも鉱石ラジオセットが架設されたが、おそらくこれは児童向けのものではなく、一般の人びとの関心に応じたものであろう。今から考えると今昔の感がある。

昭和初期の越ヶ谷中町