伝染病と越谷(昭和五十二年七月十五日号)

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 先頃和歌山県有田市でコレラ病が発生、新聞紙上を賑わしたが、幸い各地に蔓延することなく終熄をみたようである。

 コレラは、伝染病のなかでも特に恐ろしい病気で、悪性のものでは発病後数時間でころりと死亡することから、一名〝コロリ病〟とも称された。

 安政五年(一八五八)五月、米艦ミシシッピー号が沖縄から長崎の出島に来航した直後長崎でコレラが発生、同年七月には東海道を経て江戸に伝播し、上総・安房一帯に拡まった。この時コレラによって死亡した患者は、徳川十三代将軍家定をはじめ、江戸市中だけで二万八〇〇〇人に達したといわれる。越谷地域への伝播はみられなかったが、越ヶ谷本町の内藤家の『記録』によると、コレラの流行におののく越ヶ谷町民は、同年八月疫病除け祈願のため越ヶ谷久伊豆神社の神輿を町内に迎え、盛大な祈願祭を執行した。この時の参拝者は町内や在郷の人々はもちろん、草加宿や粕壁宿からも三日間にわたって群衆したとある。当時疫病の防除対策は神仏にたよるほかなかったのである。

 明治に入っても海外との接触が盛んになったため、しばしばコレラの発生をみたが、埼玉県では十年、十二年、二十八年に流行をみている。ことに十二年三月、愛媛県に発生したコレラは全国各地に蔓延し、同年七月には埼玉県川口町に浸入した。越ヶ谷町でも同年九月二十五日、大沢町でも同年十月一日に東京からの感染によるコレラ病患者が発生した。これに対し埼玉県では「西瓜・桃・梨・柿・蟹・鮹(たこ)・海老(えび)」などの発売を差留めるとともに、芝居・寄席(よせ)などの人寄せ興業を禁止した。さらに患者が発生すると警官が患者をバラック建ての避病舎に強制収容し、死亡すると警察官立会いで火葬に付し、その家の家財道具も焼却したりした。このため人びとのなかには、警察官を極度に憎み、暴動に発展した地方もあった。なお、この時のコレラは埼玉県で罹病者六三五名、うち死亡者は三六六人で死亡率は五〇%以上であった。

 政府はこうした伝染病の流行にかんがみ、防疫対策に本腰を入れ、各町村にも衛生組合を結成させたりした。その後コレラの発生は少なくなったが、痘瘡をはじめ赤痢や腸チフスがしばしば猛威をふるった。ことに明治二十九年から三十年にかけては赤痢と痘瘡が大流行したが、三十年には赤痢だけで埼玉県で四〇五四人、南埼玉郡で二〇一人の患者を数えた。このため政府は同年予防規則を改正し防疫対策を強化したが、このなかで各町村に避病院(隔離病舎)を設置することを義務づけた。桜井村では三十年の赤痢大流行の時は、各寺院を隔離病舎にあてて患者を収容したが病舎建設に対しては財政困難を理由にその延期方を請願していた。この中にあって蒲生村ではいち早く川柳村との組合立隔離病舎を大字登戸に建設、同三十三年五月に落成をみた。

 現在水道の普及、医薬の進歩、防疫対策の充実などで法定伝染病は少なくなったが、近い例では昭和三十二年の大袋地区における集団赤痢の発生などがあげられる。ことに河川の汚染は危険で、飲料水は水道にたよっているものの、河川による二次感染の度合は大きい。こうした意味で、河川をきれいにする運動は大きな意味をもっているといえよう。

浦生組合立隔離病舎の竣工式