日本の洋画界に大きな影響を及ぼしたものに、二科会がある。この二科会の創立者の一人に、越谷市出身の斎藤豊作がいる。
斎藤豊作は明治十三年六月二十二日、南埼玉郡西方村(現在越谷市相模町)の旧家、斎藤孫兵衛の次男として生まれた。生家は、屋号を味噌屋と称し、古くから味噌・醬油の醸造を家業としていた。屋敷内には味噌蔵が六棟もあるほど大きな家であった。
明治二十三年三月、大相模尋常小学校を卒業した豊作は、東京市日本橋区に住む叔母よねの養子となった。その後、開成中学校を経て、明治三十二年東京美術学校に入学、西洋画について学んだ。
明治三十八年、豊作は、東京美術学校西洋画科選科を卒業すると翌年からフランスに留学した。フランスでは有島生馬・湯浅一郎・白滝幾之助等と一緒であった。
帰国の年、明治四十五年六月、第一回光風会展に、「初冬」「残れる光」等滞欧中の作品五点を出品した。ついで大正二年、第七回文展には、「落葉かき」と「夕映の流」の二点を出品し、褒状を受賞した。その強い色彩と点描風のタッチによる新印象派の画風は、当時の画壇から注目された。
この「夕映の流」は、豊作の代表作として、現在、東京国立近代美術館に収められている。
大正三年、豊作は、有島生馬・梅原龍三郎・山下新太郎等とともに二科会を創立し、ここに作品を発表するかたわら鑑査員としても活躍した。のちにこの二科会は、文展・春陽会とともに、大正時代の洋画界の三大主流となったもので、多くの画家を育てている。
この年の十一月、来日していたフランスの女流画家カミーユ・サランソンと結婚した豊作は、大正八年の第六回二科展への出品を最後に、フランスに永住することになった。
フランスに移ってからに、サルト県の片田舎にあるヴェネヴェルの古城という館を買い求めて、そこに住んでいた。その後豊作はフランス画壇との交流も少なく、作品もほとんど発表されることがなかった。
昭和二十六年十月七日、豊作はヴェネヴェルの古城とよばれる自宅で没した。
彼の自宅には、点描風の超大作と数多くのパステル画が遺されていた。このパステル画は、彼の友人であった岡鹿之助が日本へ持ち帰ったが、その一部が埼玉会館と埼玉県立博物館に収められている。
現在、越谷市に残る豊作の作品は、大相模小学校にある十二号大の「風景」(油彩)ただ一点である。これは、豊作が母校のためにと大正四年に寄贈したものであり、越谷市の文化財として大切に保存されている。(松島光秋氏「斎藤豊作」による)