江戸川筋御猟場

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 明治二十四年、宮内省は江戸川筋御猟場を設定し、越ヶ谷町をはじめ六六か町村にわたる地域を禁猟区に指定した。宮内省はこの禁猟区設定にあたり、農作物の鳥害補償として一反歩あたり金五厘の保償手当を出した。多くの町村はこの保償金を村や学校の基本財産に寄付したが、なかにはこの基金で学校校舎を建設した所もあった。

 明治三十九年、一五か年期の保償更新期にあたり、宮内省は反当り金一銭の補償額を示したが、御猟場内町村は鳥害の甚大さを訴えて猛烈な反対運動を展開した。この結果、宮内省は反当り六銭九厘の補償額を示し、ようやく妥結した。次の更新期は大正十年であったが、このときは反当り金一五銭に増額となった。

 この間地元の反対があったものの、明治三十六年、大林村のうち元荒川屈曲地点一〇町余の土地が宮内省に買収され、同四十一年には埼玉鴨場が開設されている。

 ともかく御猟場内町村は、早くから甚大な鳥害を訴えて鳥類自由捕獲の請願を重ねていたが、明治三十九年の「御猟場内訓」、次に示された大正三年の「御猟場内則」でもきびしい制約が付され、積極的な鳥類の駆除は事実上不可能な状態であった。しかも大正十三年、江戸川筋御猟場区域は、埼玉鴨場を中心とした一八か町村に縮少されたため、鳥類はこの区域に集中しその被害も旧に倍した。このため区域内町村は強力な請願運動を起し、その対策を宮内省に迫ったので、埼玉県は三年間にわたる被害調査を実施した。

 その結果昭和二年七月に至り、「江戸川筋御猟場区域鳥害防除奨励内規」が定められ、鳥害防除に補助金が交付されるようになった。しかしこの駆除対策も、幾分緩和された「御猟場内則」にもとづいての実施であったので、雀や鳩の捕獲を中心に、その成績はあまり期待できなかった。

 一方大正十三年、御猟場を解除された町村は、この地域を猟区に指定し、入猟料や案内料を徴して一般に解放した。このうち越谷地域では、その大半が解除された川柳村・大相模村・出羽村・蒲生村が含まれる。狩猟期間は例年十一月一日から三月末日までの、各町村によって定められた日曜日で、入猟者はおよそ一日五名宛であった。これに対し入猟希望者は東京市等から殺到した。

 たとえば大正十三年度大相模村の場合、開猟日数九日、入猟許可人員四五名に対し、実に三九二三人の申込者があり、くじ引で入猟者がきめられた。そして同年度同村での狩猟成績は、鴨七二羽、雁二八羽、雉七〇羽、鴫三羽、鳩四〇九羽、兎六羽など五九五羽の獲物があった。しかし猟場設定による鳥類の乱獲で数年を経ずに鳥類は激減した。このため隔年ごとの休猟や、高麗雉の購入などをはかり、その繁殖に努めたが、元には戻らなかった。たとえば蒲生村昭和十一年度の成績をみると、開猟日数八日に対し、入猟者は二名、鴨一羽、鳩一一羽の収獲でしかなかった。

宮内庁埼玉鴨場