江戸時代、五街道のなかに数えられて幕府の管理下に置かれていた日光・奥州街道は、明治以降も国道四号線と称され、内務省の所管するところであった。
昭和六年、政府は世界恐慌のあおりをくって不況のどん底に喘いでいた都市・農村の困窮者を対象に不況対策の一環として失業救済事業を起こした。このなかに当時ようやく自動車通行が頻繁となりその破損が甚しかった国道の改良工事が含まれていた。このとき国道四号線も改良の対象となったが、まず同年千住町地先延長五・二粁にわたり、二五メートル幅の舗装新道が市街地を避けて造成された。ついで昭和八年には、草加町瀬崎地先まで道幅一五メートルの舗装道路が完成、引き続いて昭和十年以降も草加町・新田村および蒲生村地先と新道の建設が進められた。
この間草加町から宇都宮市に至る四号国道関係町村は、国道改良事業の促進とその継続を切望し、「京宮国道改良期成会」を結成して内務省に陳情をくりかえした。この改良事業は、一貫した計画による継続事業ではなく、当初は期限を切って更新され、それにもとづいて施工される失業対策事業であったからである。
このため同期成会は、そのつど事業継続の陳情をくりかえしたが、このうち昭和十一年に陳情を行った際、陳情書とともに提出された資料のなかに、十一年五月十八日午前七時から午後十時までの十五時間にわたる、主な地点における交通量の調査結果書が添えられている。これによると、越ヶ谷町入口では、歩行者四二七人に対し高速車輛(自動車)一三七八台、自転車三〇三六台、荷車二二三〇台、牛馬車四〇九台の交通量であった。なかでも自動車の通行量は全区間を通し、昭和八年の調査より約二倍から三倍に増大しており、近来交通事故が多発しているので、人びとは魔の四号国道と恐れているといっている。
こうした期成会などの運動により、改良事業はまがりなりにも継続され、昭和十六年には大沢町地内にまで達した。ところが当年の太平洋戦突入で工事は中止された。
その後二十年十二月、関係町村は終戦を機会にいち早く「四号国道改良期成会」を改めて結成、関係当局に改良事業再開の運動を始めた。しかし戦後の混乱からその着工が遅れ、本格的な国道の拡張工事が着手されたのは二十五年からであった。そして三十年にようやく桜井地区以南の改良工事が完成したが、春日部地区の改良完成は三十二年を待たねばならなかった。
こうして舗装された自動車道改良の国道四号線が造成されたが、その後自動車の交通量は急激に増大し、もはや国道四号線の交通機能は限界に迫った。このため昭和四十二年に足立区保木間から下間久里に至る草加バイパスが造成され、交通量の緩和がはかられるにいたった。ちなみに四十四年十月の一日当り平均自動車の交通量をみると、四号国道で二万余台、草加バイパスで三万七千余台であり、昭和十年頃とは隔世の感がある。
なお保木間から下間久里に至る草加バイパスが、最近国道四号線に変更されたので、その間の日光街道は「足立越谷線」と呼ばれる県道になったわけである。