太平洋戦争と越谷

193~195 / 212ページ

原本の該当ページを見る

 八月十五日は終戦記念日にあたる。明治以来、日本は日清・日露・第一次世界大戦その他天津事変・満州事変等幾多の戦争を経験してきたが、そのつど連戦連勝を遂げてきた。このため人びとは神国日本・軍国日本などと称し不敗の国であることを確信して、これを誇りに思ってきた。ところが太平洋戦では惨敗を喚し、昭和二十年八月十五日、無条件降伏を促した連合軍のポツダム宣言を受諾、ここに日支事変から発展した長期間にわたる戦争はようやく終結した。

 この間動員された兵士・軍属は数百万人にのぼったが、戦没者は空襲被爆者を含め二〇〇万人を数えるといわれる。このうち越谷地域での戦没者数は例えば蒲生村でみてみると、陸軍将兵七〇名、海軍将兵二一名、軍属三名の計九四名に達する。ちなみに明治以来蒲生村から動員された将兵の戦没者数をみると、明治十年の「西南の役」で二名、明治三十七、八年の「日露戦争」で八名、昭和六年からの満州事変で一名であるのに対し、日支事変から太平洋戦争では九四名、桜井村でも八三名の戦没者を数え、いかに大きな犠牲をはらった戦争であったかを知ることができる。

 これら将兵の戦没地域は蒲生村をとってみると満州を含め中国方面で三三名、フィリピンの二〇名、ニューギニア・サイパン・硫黄島など太平洋諸島の四〇名などとなっている。なかには昭和二十年五月沖縄本島の戦闘で、同年八月中国の戦線で戦死を遂げるなど、終戦直前に戦没した将兵も数多くみられる。

 このほか米軍機による日本各地の無差別爆撃により広島・長崎の原爆被害はもとより、東京都などの民間犠牲者も大きかった。幸い越谷並びに周辺地域の被害は少なかったものの、しばしば空襲の脅威にさらされた。

 例えば昭和十七年四月十八日南埼玉郡潮止村古新田(現八潮市)、同十九年十一月二十四日同古新田と八幡村大曾根(現八潮市)、同二十年二月二十五日八条村立野堀と伊草、同年三月八日潮止村古新田、同五月二十四日蒲生村登戸と大相模村四条、同五月二十五日大沢町鷺後・大袋村大房・新方村弥十郎などに爆弾が投下されている。このうち潮止村では多数の全焼家屋と死傷者がでている。

 ことに同年八月十四日の熊谷市の空襲では、三六三〇戸の全焼家屋と死者二三四名、負傷者三〇〇〇名の被害をうけていた。

 また同年四月七日本土を襲ったB二九をよう撃した柏航空戦隊五式戦闘機数機は、越谷上空で米軍機と空中戦を交えたが、このうち一機は同上空で被爆をうけ、新方村大吉の耕地に墜落した。新方村ではこの搭乗員の遺骸の一部を大吉の徳蔵寺で火葬に付し遺骨を所属部隊に引き渡した。その後昭和四十七年二月、大吉の耕地に墜落した搭乗員の身元調査のため、現地の発掘調査が実施されたが、発見された遺品から、この航空隊員は福井県福井市の平馬康雄であることが確認された。

 このように太平洋戦争は多くの生命と財産をうばう大きな犠牲のうえに展開されたが、我々は今一度この事歴をふり返り、将来を考える教訓としたいものである。

昭和17年頃の越ヶ谷町防空監視哨