太平洋戦争戦没者(昭和五十一年八月十五日号)

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 本年の八月十五日をもって、太平洋戦争終結から満三十一年を迎える。太平洋戦争は、日本の歴史上最大の規模をもって戦われた大戦争であったが、その結果は不敗を誇った日本軍の惨敗で終りを告げた。日本は過去に日清・日露の大戦役を経験しているが、太平洋戦の犠牲者はけた外れに大きくその戦没者数をみただけでも、いかに大規模な戦いであったかを知ることができる。

 たとえば明治二十七、八年の日清戦役における桜井村の出征兵は一五名、うち二名が病死による戦没者である。また明治三十七、八年の日露戦役では同村の出征兵は五八名、うち二名が戦死者であるが、このとき蒲生村では八名、増林村で七名、荻島村で五名、出羽村で三名の戦没者がでていた。ところが太平洋戦争では、当時の青壮年層は、ほとんどが出征の経験者であるといっても過言ではない。このうち戦没者は各町村いずれも一〇〇名前後を数える。一例を蒲生村でみると、陸軍将兵七〇名、海軍将兵二一名、軍属三名計九四名の戦没者数となっている。この人びとの戦没地域をみると、北はアッツ島から南はニューギニアに及んでいるが、戦没者の履歴を新方村遺族会の書上「経歴調査」によってその数例を掲げると次のごとくである。

 新方村大字向畑出身陸軍歩兵兵長・浜野乾一郎(当時二十六歳)は、昭和十四年三月に応召して満州黒河省木場田隊に入隊、同十七年五月帰還後同十九年六月再応召、硫黄島警備隊に派遣されたが、同二十年三月「敵の艦砲射撃、連続ノ空襲ヲ受ツヽ上陸ヲ阻止、吾行場ハ攻略サレ修羅ノ巷ト化シ音信ハ絶ヘ、猛攻撃ニヨリ反撃ノ効ナク弾ハ尽キ将兵ハ倒レ、人力不動ノ抵抗ノ限リヲ尽シ、夜ハ捨身ノ切込作戦ニ出、三月十七日最後ノ戦闘ニ奮戦力闘戦死ヲ遂グ」。同村向畑出身陸軍工兵兵長・横川清秀(当時二十五歳)は、昭和十五年十二月十五日「北支派遣軍部隊」に入隊後、同十八年四月東部ニューギニアに派遣、「其後熾烈ナル銃撃下ニ在リテ〝アレキンス〟〝ウエワク〟飛行場ノ設定、及ビ道路橋梁ノ構築其後昭和十九年三月十七日、愈々切迫シタルモ〝ウエワク〟ニ残留、海上転進スベク船便ヲ待機中、昭和十九年四月二十二日、連合軍〝ホルランヂャ〟〝アイタベ〟上陸致シ、部隊主力連絡モ絶ユ、同地付近ノ警備及ビ陣地構築、八月以降糧秣杜絶、生活困苦ノ為約三里奥地ノ〝セビック〟〝ビリンガ〟〝バルワ〟ニ自活、然ルニ菜物不足ニナヤマサレツツ尽忠ノ義ニ徹シタルモ力及バズ、昭和二十年七月十二日〝エリヒネ〟ニ於テ戦死ス」。

 同村船渡出身陸軍技師・新方武夫は日本大学高等工学部夜間部三ヵ年修業後、「昭和十七年十二月二十三日、軍属として米川部隊へ入隊、昭和十八年五月十五日、米兵熱津島(アッツ島)旭湾より上陸三日二昼夜に亘り激烈なる戦闘を交へたるも衆寡敵せず、遂に刀折れ玉尽きて山崎部隊長以下二千五百有余の勇士と共に、衆天の恨を呑んで北海の孤島に玉砕せり」。

 紙数の都合で、以上の戦没者経歴しか掲げることができなかったが、こうした悲惨な戦争を再びくりかえさないことを誓いあうと共に、改めて戦没者の冥福を祈りたいと思う。

戦没者の葬列出羽地区