十年一昔というが、今から三〇余年前は苛烈な太平洋戦争のさなかであった。「欲しがりません勝つまでは」の合言葉のもとに、国民は極端な消費の節約でその耐乏生活を強要されたばかりか、所持した物品を強制的に徴発された。ことに回収物件は、指輪や帯留などの装飾具は勿論、鉄や銅製による傘立・門柱・棚・洗面器・塀・物干・スタンド・郵便受・鉄瓶などの建築用品や家庭用品にまで及んだ。
この資源回収運動の実行団体は部落会・隣組・官公署などであったが、これを督励し監視したのは大政翼賛会ならびに昭和十七年一月に結成された翼賛壮年団の村内有力者たちであった。たとえば昭和十八年三月の桜井村回覧板では金属特別回収にあたり、「一戸ニツキ三貫七百匁モ大不足ヲシテヰマス(中略)何時調査ヲ受ケテモ差支ヒナイヤウ、一物モ残ラズ出シテ頂キマセウ、二、三日以内ニ翼賛壮年団員等ノ方々ガ、譲渡申込書持参旁々、供出オ願ヒニ伺ヒマス」とある。
そしてこの譲渡命令に違反すると、国家総動員法第三一条の二が適用され、一〇年以下の懲役又は五万円以下の罰金に処せられるという苛酷なものであった。また金属の回収は一般家庭ばかりでなく町村役場や学校などの公共施設、はては神社仏閣にまで及んだ。すなわち、昭和十六年十二月には桜井村役場で鉄製の火鉢三個、釜・鉄瓶各一個、銅製の焜爐と消火器各一個、アルミの自転車鑑札四〇〇個を供出していた。桜井村国民学校でも、鉄の火鉢二個と靴拭器一個、それに銅製の消火器を出している。
さらに昭和十八年一月には、平方の林西寺をはじめ大泊の安国寺、増林の林泉寺、同勝林寺、増森の東正寺、東小林の東福寺など越谷地域の寺院すべての梵鐘その他が徴用撤去された。因みにこの代金は、林泉寺の梵鐘が三四七円一〇銭、林西寺の梵鐘が五三五円七八銭であり、しかもこの代金は国債で支払われていた。なかには天井と釣鐶の間隔が狭かったため、これを撤去することができなかったので、あやうく供出をまぬがれた野島浄山寺の鰐口の例などもある。
こうしてその後、金属の回収は銅像や街路灯はては火の見櫓にまで及んだが、このほか反古紙・ぼろ布・毛糸・ガラス・毛髪・古綿などの廃品も回収された。これらの品はすべて飛行機や軍艦それに軍服や軍用品などの資源として再製され、戦争に消費されたのである。
現在不況のためか、一般に節約ムードが拡がっているが、三〇余年前のような耐乏生活を再び余儀なくされることは、将来決してないとは、誰にも保証できないであろう。