戦後の供出騒ぎ(昭和五十年八月十五日号)

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 昭和二十二年九月、関東地方を襲ったカスリーン台風の洪水被害によって、埼玉県の稲の収穫高は一〇四万一三六一石にとどまった。この生産高は前年度の実収一四一万三〇八四石に対し三五・七%の減収にあたる越谷地域町村の収穫高も大幅な減収になったが、中でも洪水被害の甚大であった桜井村・増林村等新方領地域が、前年比四〇%から七〇%の減収であった。

 当時、戦中戦後の荒廃から食糧事情は極度に悪化していたため、占領軍当局をはじめ政府は、農家に対し「食料緊急措置法」を発し、洪水被害の大きかった農村にも容赦ない供出を迫っていた。たとえば水害をうけた桜井村でも実収高三五七四石に対し二六三六石の供出米の割当を行っている。しかし水害と供米の板ばさみにあった農民は、生活に不安を感じこの供米には応じようとしなかった。かくて桜井・増林・大沢の各町村は、埼玉軍政部司令官ライアン中佐や西村埼玉県知事の厳しい供米督促にもかかわらず、期限内の供米成績は零であった。

 これに対し翌二十三年一月十九日、埼玉県知事は連合軍より重大命令を受けたとして、一月末日までの完納電文を発した。それでも農民はないものは出せないと供米に応じなかった。供米を督促する立場の村役場も、こうした無理な供米を迫る当局には抵抗を感じたとみえ、たとえば桜井村役場の「オシラセ」の回覧板には、「丸裸供出!」の見出しで当局の通達を記し、「目的完納しないと配給米が県より入らぬ上に強制収容とは、自醒・自覚」とか、あるいは「供出! 水害地は丸裸供出をしなければなりません。速やかに供出を! 裸供出とは収穫した米は屑米に至るまで全部供出して戴くことです」などと皮肉な注記を付していた。また「ジープは飛んできた! 皆さん何故供出しないのか! 一にも二にも裸供出完納! 出なければ出る様にしますゾート」というようなお知らせ板もあった。

 しかし桜井村の供米成績は二月十九日現在割当額の三六%で、不良供出村の烙印がおされ、「三月五日午前十時、県庁ヘ出頭セラレタイ」との県知事からの出頭命令がよせられている。この間、新方村の農家一九戸が、県下で初めての不供出罪で検挙される騒ぎもおきた。

 こうして無理な供米の結果、桜井村では同年三月、村長以下一〇〇%にあたる五三八戸、三〇六一名の全人口が、すべて要配給者であるとして、四月分の主食配給量一七六石余の配給方を県に申請した。これに対し、県では五〇石の配給しか行わなかったので、桜井村では「処置全くつかず、如何とも成し難き状態」であるとして、不足分追加配給の請求を行っていた。

 こうした供出をめぐる農村越谷の当時の混乱を知る人はまだ多いであろう。減反政策で田を遊ばせているところもある現在から、僅か二七年前のことである。そういえば今年の終戦記念日の八月十五日は、あれからちょうど満三〇年を数える。戦争の悲惨さを今一度思いおこす機会でもあろう。

桜井地区平方浅間神社