新方村の選挙広報(その三)

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選挙法改正の初めての選挙

 埼玉民政部司令官ライアン中佐は、さらに言葉を続ける。

 こういう事態は皆本当と思うが、然し正しい言訳ではありません。どういう理由であろうと投票の義務を果さず、日本を、住むによりよいところとする上に、尽すべき義務を果さずともよいという事にはなりません。かつてのあなた方は、男子の有権者をたよりとして、あなた方やお子方が安全で豊かな生活が出来るように、上に立つ政府に期待していました。その結果はどうです。日本を敗戦国に陥し入れ、あなた方の夫、兄弟、お子さんたちの尊い生命を犠牲とした。あの惨たんたる戦争、あなた方はこの過ちを繰返していいのですか。
 このためにも民主的な候補者を自からよく選んで必ず投票を行う必要があるのである、と言っている。

 こうして衆議院議員選挙の当日を迎えたが、新方村の投票率は七〇・四%であり、埼玉県の平均七一%をやや下まわった。このうち無効投票が一九票あったが、なかには立候補者の名を折り込んだ「佐瀬サセ青木、須永デ古ク 野口 田口ヲ小川ガ流シ 馬場や野村も睦マジク 大木・深野デキミモ立ツ」という洒落た投書もあった。

 この時の選挙は、前回の埼玉県を一区とした大選挙区による連記投票が改められ、埼玉県を四区に区分した中選挙区制による単記投票によって行われた。その結果は越谷地域を含む第四区では、自由党の古島義英と佐瀬昌三、それに社会党の馬場秀夫が当選した。全国の勢力分野では、社会党一四二、自由党一三四、民主党一二六、国民協同党三一、共産党四などという議席数となり、これにより第一党となった社会党の委員長片山哲を首班とした三党連立内閣が誕生した。

 続いて四月三十日は最後の選挙にあたる県会と市町村会の議員投票日であった。新方村では有終の美を飾ろうと回覧板をもって盛んに棄権の防止を呼びかけた。その一つに「私達の代表する県政・村政へ送る立派な人を選ぶ最後の御奉公の日です。一人のキケン者もなく、必ず投票して下さい。進駐軍とゆうシュウトを持つ現在の私達でありますが、進駐軍は再建日本のタメ、本当に選挙については血の出るようなゲキレイの言葉を送っています。どうぞ人ごととは考えずご投票下さい」とて、選挙に対する進駐軍の力の入れようを力説し、人ごととは思わず投票して下さいといったものもあった。

 この結果、当日の新方村の投票率は八八・三%に達し、埼玉県の平均八二・八%を大きく上まわった。ことに新方村のなかでも、大吉の投票区が九三・七%、北川崎の投票区が九三・二%という好成績をおさめた。こうして進駐軍の血の出るような激励や、村役場の熱心な宣伝活動があったためであろう。敗戦日本を再建しようとする人々の意識は高まった。こうして、日本の選挙史上はじめての新選挙にかかわらず、永い歴史をもった西欧諸国の選挙に劣らず、静かな、しかも秩序ある選挙が人々の関心の高まりのもとで整然と行われたのであった。なお衆議院議員の次の総選挙は、片山総理の跡を襲った芦田内閣の崩壊により、これを、受け継いだ吉田内閣のもとで、二十四年一月に行われたが、このときは民主自由党が多数の議席を獲得した。以上は、市史編さん室所蔵の新方村選挙資料に基づいたものである。

婦人会による棄権防止活動