消防制度の沿革
木枯しのおとずれとともに、火災の恐ろしい季節を迎えた。ことに軒を接して人家が密集している越ヶ谷町では、明治七年の針屋火事、同三十二年の芋金火事など、町の大半を焼失する火災を経験している。その後もしばしば火災が発生したが、消防組織や消防設備の充実により、大火にまでは至らなかった。しかし今後かならずしも大火災はないという保障はなに一つない。
ところで現在の消防制度は、戦後の改革によって生れたものである。それまでの消防組織は消防団と称され、明治以来警察署長の指導監督下におかれていた。ことに日中戦争を契機として、昭和十四年四月、警防団令が公布され強力な警察署長の統制下に、防空、治安、防火、防水など広範な任務が課せられ、その名称も警防団と改められた。
ところが戦後、新憲法の制定にともない、消防組織を警察から分離させ、地方自治体に移すという民主化政策のなかで、まず二十二年四月消防団令が公布され、その名称は警防団から再び消防団と改められた。続いて同年十二月消防組織法が制定され、消防団は各市町村の管掌に移されることになった。この法令の施行日は二十三年二月であったが、このときの埼玉県の通達には、「消防業務のすべては市町村長に移譲され、水・火災その他災害時における消防活動、ならびに諸報告のすべてが市町村長の責任」になったと述べている。
各市町村ではこの法令に基づき、消防委員会条例や消防団設置条例を設置した。たとえば桜井村の条例によると、村長兼任の消防委員長以下六名で構成された委員会が設けられるとともに、団長以下二五五名の団員により、本部ほか七分団が編成された。だがこれは単に消防団の責任者が警察署長から村長にかえられただけで、従来の警防団の組織や機能をそのまま踏襲したものであり、以前と全く変りなかった。つまり警察から町村に移された消防団に対する財政措置が行われなかったので、その消防組織は形式的な消防組織法の履行に過ぎなかったのである。
消防設備の実態も、たとえば桜井村二十三年十一月の書上げでみると、大正六年から同九年にかけ、各分団で備えつけられた手押消防ポンプが七台、このほか大正年間から使用されている。釣瓶、手桶、火の見櫓、はしごなどであった。これに対し埼玉県では、将来の消防施設拡充計画書の提出を求めたが、桜井村では「本村現在の処施設計画の要なきものと認めます」と消極的な回答を示した。これには同年九月、火災の度数やその損害額の調査書上げを求めたのに対し、「本村本日迄過去一ヶ年無火災です」と報告していたごとく、火災に対する懸念が深刻でなかったためもあったが、なによりも消防費が村財政を圧迫する大きな負担となることを憂慮したものであった。